投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 9日(火)12時00分37秒
尊氏の勅撰初入集の歌はまた後で検討するとして、『臨永集』に移ります。
「第四章 文保~元弘期(鎌倉最末期)の歌壇」の第十一節「臨永集と松花集」の冒頭から少し引用します。(p316以下)
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臨永・松花ともに鎌倉最末期に、二条派の人の手によって撰ばれた私撰集である。
臨永集 類従所収。穂久邇本(鎌倉末写?)・書陵部本(三本)・東大研究室本・神宮本・三手本・彰考館本・松平本等伝本は多い。類従本は善本でなく、脱落などがあるが、福田秀一氏が『群書解題』<第七>でそれらを補っている。【中略】
既に冨倉二郎氏が「続現葉和歌集と臨永和歌集」(国語国文、昭一一9)で、最近また福田氏も指摘するように、成立は元徳三年<八月元弘と改元>三月尽の詞書がみえるのでこれ以後、集中作者の官位記載(春宮大夫公宗など)によって同年九月以前であろう。
十巻七百七十首、作者は百八十名。長舜のように物故者が少数入っている外、後宇多・為藤・公雄らがみえず、生存者中心の集である。入集歌数の多い人は、為世25、今上(後醍醐)22、覚助18、院(後伏見)17、実教14、為定・今出川院近衛12、公宗母11、為明・為実・雅孝・隆教・永福門院10、新院(花園)・万秋門院9。
大覚寺統・二条派の人が優遇されているのは勿論で、為親8、邦省7、尊良・忠房・為冬・為道女6、為忠・為嗣3。法体歌人は、長舜8、浄弁・能誉・頓阿6、公順・実性・隆淵5、慶運・運尋2、の如く多く採られている。
持明院統の皇族や飛鳥井・九条家などの歌道家の人々もかなり多く採られている。為兼が入っていないのは、配流の身だからであろうし、為相・為守が零なのは物故者だからである。
以上の外、道平(前関白左大臣)7、公賢(前内大臣)・定房・師賢・親房6、冬教(関白前左大臣)・行房・実仁・具行・忠守・光吉・有忠5、清忠4など、権門や大覚寺統系廷臣の歌はそつなく採られている。
冨倉氏は前掲論文で、後宇多院・邦省親王の歌が入っていないから、臨永は後醍醐側の集であろう、といっているが、それは恐らく誤りで、物故者だから入っていないのである。有忠や邦省親王の歌が決して少ないとはいえぬ程度に入っているのも、その誤りが裏がきされるであろう。
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「成立は元徳三年<八月元弘と改元>三月尽の詞書がみえるのでこれ以後、集中作者の官位記載(春宮大夫公宗など)によって同年九月以前」とのことなので、西暦だと1331年、本当に鎌倉最末期ですね。
八月九日の元弘改元の直後、二十四日に後醍醐が三種の神器を携えて密かに京都を出奔し、笠置に移って挙兵する訳ですから、『臨永集』は本当に嵐の前の静けさの中で編まれた歌集です。
とはいっても、ここまでは歴史研究者にとっては退屈な話でしょうが、『臨永集』が極めて興味深いのは武家歌人の入集が多い点です。(p317以下)
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次に注意すべきは武家歌人の入集状況である。北条英時・同守時女<英時妹>・大友貞宗6、東氏村5、斎藤基明・二階堂行友・島津忠秀・安東重綱・斎藤基夏・足利高氏3、の如くで、中でも英時兄妹の歌がずばぬけて多い事は注目に価し、しかもその英時は元亨元年末~同三年九月、正中二、三年~元弘三年まで鎮西探題であり、この臨永集が成立した時もその任にあり、かつ英時の姉妹も新拾遺一八七七によって伴われて九州に下向していた事がわかる。〔補注〕
川添昭二氏「九州探題今川了俊の文学活動」(九州大学九州文化史研究所紀要10=昭三八10)によると、臨永作者の内(アラビア数字は臨永入集数、私注)、藤原貞経2は少弐、平重棟2は渋谷(なお重棟女1)、共に鎮西探題引付で、特に少弐氏は二番引付頭人である。更に平貞宗6・同貞直3も、大友貞宗・同庶流戸次貞直ではないか、と推定している。大友氏は藤氏といわれているが、川添氏によると平姓を称した確かな支証がある由で、貞宗が大友であろう事、即ち浄弁から古今を伝授した江州入道(具簡)であろう事は間違いあるまい。続千載以降の作者でもある。貞直の場合は、或は続千載・続後拾遺に入集した大仏貞直の可能性もある。宗像氏長2は筑前宗像大宮司家で、川添氏によると「九州における二条派歌風のひろがりを考える上に若干の示唆を与えるようである。その際、宗像氏の鎌倉幕府御家人化を考慮に入れるべき事」である。川添氏に「鎮西評定衆、同引付衆について」という論文があるが(歴史教育、昭和三八7)、これによって臨永を見ると、更に平重雄1が渋谷下総権頭、藤原利尚2が斎藤二郎左衛門尉、藤原光兼が飯河縫殿允、平久義2が下広田新左衛門尉、藤原光政1が弾正二郎兵衛尉、に比定してよいのではないか、とも思われる。
もとより惟宗忠秀4は島津氏であり、多々良貞弘2・同重貞1は大内氏であろう。この外にも多分九州関係の人々は多いと思う。なお田部・宇治を名乗る人々も九州の人ではなかろうか。以上九州関係の内、勅撰作者は英時・守時女・忠秀・貞宗位で、名門・大豪族の人々で、他の多くの一、二首組はこの集にしか名がみえない(なお続千載に一首入集した道義法師も作者部類によると島津氏である)。
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いったん、ここで切ります。
「英時兄妹の歌がずばぬけて多い事は注目に価し」とありますが、北条(赤橋)英時は鎌倉幕府最後の執権・守時の弟で、英時の妹には尊氏の正室・登子もいますね。
北条英時(?-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%8B%B1%E6%99%82
『臨永集』成立の僅か二年後、元弘三年(1333)三月に菊池武時が後醍醐側として挙兵すると、少弐貞経・大友貞宗は鎮西探題・英時側に立って菊池武時を敗死させますが、その二ヶ月後、今度は少弐貞経・大友貞宗が鎮西探題を滅ぼします。
そして、その際に尊氏は大友貞宗と緊密な連絡を取っています。
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1dd5123eeb460e1b8701cd9cfe6b08a
「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192
「大友貞宗の腹は元弘三年三月二〇日の段階ではまだ固まっていなかった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d5dfc5df2b095e05c6da24a62ee1e33
「このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動」(by 小松茂美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe5560701dd33e1fefa4d23a6ebf9f42
さて、「九州関係の内、勅撰作者は英時・守時女・忠秀・貞宗位で、名門・大豪族の人々で、他の多くの一、二首組はこの集にしか名がみえない」とのことですが、大友貞宗は単に勅撰歌人であるだけでなく、「貞宗が大友であろう事、即ち浄弁から古今を伝授した江州入道(具簡)であろう事は間違いあるまい」との事で、武家としては最高レベルの歌人ですね。
そして、『臨永集』には尊氏の正室である赤橋登子の兄と姉妹の「英時兄妹の歌がずばぬけて多い事」と、尊氏も三首入集していることを考え併せると、自ずとひとつの疑問が浮かんできます。
それは、足利尊氏は元弘三年になって初めて大友貞宗と接触したのではなく、鎮西探題を中心とする「北九州歌壇」の中で、既に交流があったのではないか、という疑問です。
大友貞宗(?-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%B2%9E%E5%AE%97
尊氏の勅撰初入集の歌はまた後で検討するとして、『臨永集』に移ります。
「第四章 文保~元弘期(鎌倉最末期)の歌壇」の第十一節「臨永集と松花集」の冒頭から少し引用します。(p316以下)
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臨永・松花ともに鎌倉最末期に、二条派の人の手によって撰ばれた私撰集である。
臨永集 類従所収。穂久邇本(鎌倉末写?)・書陵部本(三本)・東大研究室本・神宮本・三手本・彰考館本・松平本等伝本は多い。類従本は善本でなく、脱落などがあるが、福田秀一氏が『群書解題』<第七>でそれらを補っている。【中略】
既に冨倉二郎氏が「続現葉和歌集と臨永和歌集」(国語国文、昭一一9)で、最近また福田氏も指摘するように、成立は元徳三年<八月元弘と改元>三月尽の詞書がみえるのでこれ以後、集中作者の官位記載(春宮大夫公宗など)によって同年九月以前であろう。
十巻七百七十首、作者は百八十名。長舜のように物故者が少数入っている外、後宇多・為藤・公雄らがみえず、生存者中心の集である。入集歌数の多い人は、為世25、今上(後醍醐)22、覚助18、院(後伏見)17、実教14、為定・今出川院近衛12、公宗母11、為明・為実・雅孝・隆教・永福門院10、新院(花園)・万秋門院9。
大覚寺統・二条派の人が優遇されているのは勿論で、為親8、邦省7、尊良・忠房・為冬・為道女6、為忠・為嗣3。法体歌人は、長舜8、浄弁・能誉・頓阿6、公順・実性・隆淵5、慶運・運尋2、の如く多く採られている。
持明院統の皇族や飛鳥井・九条家などの歌道家の人々もかなり多く採られている。為兼が入っていないのは、配流の身だからであろうし、為相・為守が零なのは物故者だからである。
以上の外、道平(前関白左大臣)7、公賢(前内大臣)・定房・師賢・親房6、冬教(関白前左大臣)・行房・実仁・具行・忠守・光吉・有忠5、清忠4など、権門や大覚寺統系廷臣の歌はそつなく採られている。
冨倉氏は前掲論文で、後宇多院・邦省親王の歌が入っていないから、臨永は後醍醐側の集であろう、といっているが、それは恐らく誤りで、物故者だから入っていないのである。有忠や邦省親王の歌が決して少ないとはいえぬ程度に入っているのも、その誤りが裏がきされるであろう。
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「成立は元徳三年<八月元弘と改元>三月尽の詞書がみえるのでこれ以後、集中作者の官位記載(春宮大夫公宗など)によって同年九月以前」とのことなので、西暦だと1331年、本当に鎌倉最末期ですね。
八月九日の元弘改元の直後、二十四日に後醍醐が三種の神器を携えて密かに京都を出奔し、笠置に移って挙兵する訳ですから、『臨永集』は本当に嵐の前の静けさの中で編まれた歌集です。
とはいっても、ここまでは歴史研究者にとっては退屈な話でしょうが、『臨永集』が極めて興味深いのは武家歌人の入集が多い点です。(p317以下)
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次に注意すべきは武家歌人の入集状況である。北条英時・同守時女<英時妹>・大友貞宗6、東氏村5、斎藤基明・二階堂行友・島津忠秀・安東重綱・斎藤基夏・足利高氏3、の如くで、中でも英時兄妹の歌がずばぬけて多い事は注目に価し、しかもその英時は元亨元年末~同三年九月、正中二、三年~元弘三年まで鎮西探題であり、この臨永集が成立した時もその任にあり、かつ英時の姉妹も新拾遺一八七七によって伴われて九州に下向していた事がわかる。〔補注〕
川添昭二氏「九州探題今川了俊の文学活動」(九州大学九州文化史研究所紀要10=昭三八10)によると、臨永作者の内(アラビア数字は臨永入集数、私注)、藤原貞経2は少弐、平重棟2は渋谷(なお重棟女1)、共に鎮西探題引付で、特に少弐氏は二番引付頭人である。更に平貞宗6・同貞直3も、大友貞宗・同庶流戸次貞直ではないか、と推定している。大友氏は藤氏といわれているが、川添氏によると平姓を称した確かな支証がある由で、貞宗が大友であろう事、即ち浄弁から古今を伝授した江州入道(具簡)であろう事は間違いあるまい。続千載以降の作者でもある。貞直の場合は、或は続千載・続後拾遺に入集した大仏貞直の可能性もある。宗像氏長2は筑前宗像大宮司家で、川添氏によると「九州における二条派歌風のひろがりを考える上に若干の示唆を与えるようである。その際、宗像氏の鎌倉幕府御家人化を考慮に入れるべき事」である。川添氏に「鎮西評定衆、同引付衆について」という論文があるが(歴史教育、昭和三八7)、これによって臨永を見ると、更に平重雄1が渋谷下総権頭、藤原利尚2が斎藤二郎左衛門尉、藤原光兼が飯河縫殿允、平久義2が下広田新左衛門尉、藤原光政1が弾正二郎兵衛尉、に比定してよいのではないか、とも思われる。
もとより惟宗忠秀4は島津氏であり、多々良貞弘2・同重貞1は大内氏であろう。この外にも多分九州関係の人々は多いと思う。なお田部・宇治を名乗る人々も九州の人ではなかろうか。以上九州関係の内、勅撰作者は英時・守時女・忠秀・貞宗位で、名門・大豪族の人々で、他の多くの一、二首組はこの集にしか名がみえない(なお続千載に一首入集した道義法師も作者部類によると島津氏である)。
-------
いったん、ここで切ります。
「英時兄妹の歌がずばぬけて多い事は注目に価し」とありますが、北条(赤橋)英時は鎌倉幕府最後の執権・守時の弟で、英時の妹には尊氏の正室・登子もいますね。
北条英時(?-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%8B%B1%E6%99%82
『臨永集』成立の僅か二年後、元弘三年(1333)三月に菊池武時が後醍醐側として挙兵すると、少弐貞経・大友貞宗は鎮西探題・英時側に立って菊池武時を敗死させますが、その二ヶ月後、今度は少弐貞経・大友貞宗が鎮西探題を滅ぼします。
そして、その際に尊氏は大友貞宗と緊密な連絡を取っています。
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1dd5123eeb460e1b8701cd9cfe6b08a
「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192
「大友貞宗の腹は元弘三年三月二〇日の段階ではまだ固まっていなかった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d5dfc5df2b095e05c6da24a62ee1e33
「このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動」(by 小松茂美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe5560701dd33e1fefa4d23a6ebf9f42
さて、「九州関係の内、勅撰作者は英時・守時女・忠秀・貞宗位で、名門・大豪族の人々で、他の多くの一、二首組はこの集にしか名がみえない」とのことですが、大友貞宗は単に勅撰歌人であるだけでなく、「貞宗が大友であろう事、即ち浄弁から古今を伝授した江州入道(具簡)であろう事は間違いあるまい」との事で、武家としては最高レベルの歌人ですね。
そして、『臨永集』には尊氏の正室である赤橋登子の兄と姉妹の「英時兄妹の歌がずばぬけて多い事」と、尊氏も三首入集していることを考え併せると、自ずとひとつの疑問が浮かんできます。
それは、足利尊氏は元弘三年になって初めて大友貞宗と接触したのではなく、鎮西探題を中心とする「北九州歌壇」の中で、既に交流があったのではないか、という疑問です。
大友貞宗(?-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%B2%9E%E5%AE%97