投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 1日(月)11時23分53秒
続きです。(p22以下)
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それでは、この法令は護良の要求にこたえたものかというと、かならずしもそうではない。というのは、当時護良は独断で、すなわちかれ自身の指令で、配下の武士に旧領を取り返させ、また旧領回復に名をかりてかってに他人の所領を奪うことを許して、問題をおこしていたのであって、六月十五日の旧領回復令が旧領を回復するには綸旨をもらわなければならぬと規定したのは、そのような護良の濫発する指令を制限する意図を含んでいた。
けっきょく、旧領回復令は護良勢力の要望にこたえる反面、護良の独走をおさえ、護良のつくり上げた軍事支配を後醍醐の直接支配に移すことをねらったものと見るべきだろう。この法令が、護良の入京と征夷大将軍就任について、後醍醐・護良間に交渉がおこなわれたその時点に発布されていることは、両者の関係の微妙さをいっそうよく物語るものだろう。
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「旧領回復令は護良勢力の要望にこたえる反面、護良の独走をおさえ、護良のつくり上げた軍事支配を後醍醐の直接支配に移すことをねらったもの」という、根拠となる史料の不存在を佐藤氏が自認する「推定」は、その複雑さが例の「東北と関東の地に生まれた二つの小幕府」(p44)に関する「尊氏の逆手どり」論(p43)を連想させますね。
さて、「二者択一パターン」エピソードと『太平記』流布本に基づく護良入京六月二十三日説を前提とすると、六月十五日付旧領回復令についてのこのような「推定」も、一応の論理としては理解できない訳ではありません。
しかし、佐藤説によれば六月十五日時点では信貴山に立て籠もっていたはずの護良が、旧領回復令がこのような狙いを持っていることを知っていたら、果たして山を降りたのか。
逆に後醍醐が護良に隠れてこの法令を出していたなら、下山して直ぐに後醍醐の狙いを知ったであろう護良は、その時点で「俺を騙したな」と激怒して、後醍醐との関係が決裂することにならなかったのか。
「尊氏の逆手どり」論とも共通する佐藤氏特有の複雑かつアクロバティックな論理は、どうにも人間の自然な感情に反しているように思われます。
また、私自身は、征夷大将軍を「解任」されたらスパッと「将軍家」・「将軍宮」の使用を止めた護良はかなり律儀な人間だと思っていて、護良は、少なくとも主観的には後醍醐に与えられた権限の範囲内で行動していたのではないかと想像しますが、仮に護良が「独断」で指令を「濫発」していたとしても、それは恩賞なくしては動かない連中を動員して戦争に勝つための手段だったのだから、仕方ないといえば仕方ない話ですね。
しかも、佐藤氏が「旧領回復令の直接の対象は、護良に組織された畿南の反幕兵士だったといってよい」(p22)とされているように、護良が引き起こした「問題」は決して全国規模ではなく、実際上は護良の活動範囲であった南畿に限られる訳ですから、量的にもたいした話ではありません。
戦時に護良が「独断」で与えた恩賞を、平和の到来後に後醍醐の新政権が追認しなかったために不満を抱いた「畿南の反幕兵士」がいたとしても、別の恩賞を与えるとかの代替措置を取れば済んでしまう程度のことです。
総じて護良が引き起こしたという「問題」は後醍醐・護良間に直ちに深刻な対立をもたらすようなレベルのものではなかった、と考えるべきであり、それは護良が征夷大将軍を「解任」された後も一年以上ブラブラしていたことからも明らかだと思います。
両者間に本当に深刻な対立があったのなら、白根靖大氏が誤解したように、護良は征夷大将軍を「解任」された直後に逮捕・監禁されたはずですね。
護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9fec18d6e38102c64a29557b42765002
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e32b9b964de6516b696bbe7fc40bd7ad
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbde7787a86b6133c16f9b56acb161ba
さて、この後、「朝敵所領没収令」についての説明がありますが、今では佐藤氏の議論の前提そのものが否定されていて、検討する意味も実際にはあまりない古い議論です。
ただ、かつての通説ではあったので、一応紹介しておこうと思います。(p23)
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これにたいして、朝敵所領没収令のほうはどうか。この法令で朝敵の範囲を広く規定したのは、恩賞の財源を財源を大量に確保する点に大きなねらいがあったわけだが、「朝敵」と「官軍」の区別を明確にしないかぎり、朝敵の範囲は解釈しだいでほとんど限りなく拡大できることは、三年の戦乱が最後の最後で高氏・義貞の寝返りで大勢逆転して終結した事情を考えただけでも明らかだろう。げんに高氏・義貞にしても元弘三年(一三三三)四月までは朝敵だったではないか。
まして大勢が逆転したのちに討幕側に加わった武士、高氏の勧告によって幕府軍の陣列をはなれた武士ともなれば、これを朝敵と認定して、所領を没収するかどうかは裁量しだいである。この点、源平の争乱が平氏の滅亡で幕をとじた際に、所領没収の対象を平氏の一族と家人の所領にとどめ、承久の乱後、京都方の所領を没収した際にも、貴族の首謀者と京都軍に積極的に参加した一部の武士に限定して、いずれも貴族と武士の動揺をおさえた先例に学ぼうとはしなかったわけである。
ともあれ、朝敵所領没収令が旧幕府系の武士に与えた不安と不満は測りがたいものがあった。もしかれらの不安と不満を代弁できる人物を求めるとすれば、それはかれらの多くを配下に入れて、六波羅探題の後継者と自任する足利高氏をおいてほかにはないだろう。
こうして新政初期の所領対策をめぐって、護良勢力と高氏勢力は鋭い対立関係を示す。そして後醍醐が両者にたいしていっそう微妙な関係をもつ第三の立場に立つのである。
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検討は次の投稿で行います。
続きです。(p22以下)
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それでは、この法令は護良の要求にこたえたものかというと、かならずしもそうではない。というのは、当時護良は独断で、すなわちかれ自身の指令で、配下の武士に旧領を取り返させ、また旧領回復に名をかりてかってに他人の所領を奪うことを許して、問題をおこしていたのであって、六月十五日の旧領回復令が旧領を回復するには綸旨をもらわなければならぬと規定したのは、そのような護良の濫発する指令を制限する意図を含んでいた。
けっきょく、旧領回復令は護良勢力の要望にこたえる反面、護良の独走をおさえ、護良のつくり上げた軍事支配を後醍醐の直接支配に移すことをねらったものと見るべきだろう。この法令が、護良の入京と征夷大将軍就任について、後醍醐・護良間に交渉がおこなわれたその時点に発布されていることは、両者の関係の微妙さをいっそうよく物語るものだろう。
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「旧領回復令は護良勢力の要望にこたえる反面、護良の独走をおさえ、護良のつくり上げた軍事支配を後醍醐の直接支配に移すことをねらったもの」という、根拠となる史料の不存在を佐藤氏が自認する「推定」は、その複雑さが例の「東北と関東の地に生まれた二つの小幕府」(p44)に関する「尊氏の逆手どり」論(p43)を連想させますね。
さて、「二者択一パターン」エピソードと『太平記』流布本に基づく護良入京六月二十三日説を前提とすると、六月十五日付旧領回復令についてのこのような「推定」も、一応の論理としては理解できない訳ではありません。
しかし、佐藤説によれば六月十五日時点では信貴山に立て籠もっていたはずの護良が、旧領回復令がこのような狙いを持っていることを知っていたら、果たして山を降りたのか。
逆に後醍醐が護良に隠れてこの法令を出していたなら、下山して直ぐに後醍醐の狙いを知ったであろう護良は、その時点で「俺を騙したな」と激怒して、後醍醐との関係が決裂することにならなかったのか。
「尊氏の逆手どり」論とも共通する佐藤氏特有の複雑かつアクロバティックな論理は、どうにも人間の自然な感情に反しているように思われます。
また、私自身は、征夷大将軍を「解任」されたらスパッと「将軍家」・「将軍宮」の使用を止めた護良はかなり律儀な人間だと思っていて、護良は、少なくとも主観的には後醍醐に与えられた権限の範囲内で行動していたのではないかと想像しますが、仮に護良が「独断」で指令を「濫発」していたとしても、それは恩賞なくしては動かない連中を動員して戦争に勝つための手段だったのだから、仕方ないといえば仕方ない話ですね。
しかも、佐藤氏が「旧領回復令の直接の対象は、護良に組織された畿南の反幕兵士だったといってよい」(p22)とされているように、護良が引き起こした「問題」は決して全国規模ではなく、実際上は護良の活動範囲であった南畿に限られる訳ですから、量的にもたいした話ではありません。
戦時に護良が「独断」で与えた恩賞を、平和の到来後に後醍醐の新政権が追認しなかったために不満を抱いた「畿南の反幕兵士」がいたとしても、別の恩賞を与えるとかの代替措置を取れば済んでしまう程度のことです。
総じて護良が引き起こしたという「問題」は後醍醐・護良間に直ちに深刻な対立をもたらすようなレベルのものではなかった、と考えるべきであり、それは護良が征夷大将軍を「解任」された後も一年以上ブラブラしていたことからも明らかだと思います。
両者間に本当に深刻な対立があったのなら、白根靖大氏が誤解したように、護良は征夷大将軍を「解任」された直後に逮捕・監禁されたはずですね。
護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9fec18d6e38102c64a29557b42765002
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e32b9b964de6516b696bbe7fc40bd7ad
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbde7787a86b6133c16f9b56acb161ba
さて、この後、「朝敵所領没収令」についての説明がありますが、今では佐藤氏の議論の前提そのものが否定されていて、検討する意味も実際にはあまりない古い議論です。
ただ、かつての通説ではあったので、一応紹介しておこうと思います。(p23)
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これにたいして、朝敵所領没収令のほうはどうか。この法令で朝敵の範囲を広く規定したのは、恩賞の財源を財源を大量に確保する点に大きなねらいがあったわけだが、「朝敵」と「官軍」の区別を明確にしないかぎり、朝敵の範囲は解釈しだいでほとんど限りなく拡大できることは、三年の戦乱が最後の最後で高氏・義貞の寝返りで大勢逆転して終結した事情を考えただけでも明らかだろう。げんに高氏・義貞にしても元弘三年(一三三三)四月までは朝敵だったではないか。
まして大勢が逆転したのちに討幕側に加わった武士、高氏の勧告によって幕府軍の陣列をはなれた武士ともなれば、これを朝敵と認定して、所領を没収するかどうかは裁量しだいである。この点、源平の争乱が平氏の滅亡で幕をとじた際に、所領没収の対象を平氏の一族と家人の所領にとどめ、承久の乱後、京都方の所領を没収した際にも、貴族の首謀者と京都軍に積極的に参加した一部の武士に限定して、いずれも貴族と武士の動揺をおさえた先例に学ぼうとはしなかったわけである。
ともあれ、朝敵所領没収令が旧幕府系の武士に与えた不安と不満は測りがたいものがあった。もしかれらの不安と不満を代弁できる人物を求めるとすれば、それはかれらの多くを配下に入れて、六波羅探題の後継者と自任する足利高氏をおいてほかにはないだろう。
こうして新政初期の所領対策をめぐって、護良勢力と高氏勢力は鋭い対立関係を示す。そして後醍醐が両者にたいしていっそう微妙な関係をもつ第三の立場に立つのである。
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検討は次の投稿で行います。