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川添昭二氏「鎮西探題歌壇の形成」(その2)

2021-02-13 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月13日(土)10時12分24秒

2月6日の投稿で書いた「松岩寺冬三老僧」については若干の進展があったので、川添氏の見解を紹介した後でまとめるつもりです。
「松岩寺」は現在は天龍寺の塔頭となっている「松厳院」の前身で、尊氏伝承の信頼性はかなり高いことが分かりました。

緩募:『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea0333130fe14c47391316eb21ce5401

さて、川添著の続きです。(p45以下)

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 京都歌人の九州下向が九州の文芸に意味をもったことが確かに知られるのは、鎌倉末期の浄弁の場合である。浄弁の九州下向については、『続草庵集』巻三雑(イ)と『兼好法師歌集』(ロ)に次のように見える。

(イ)  法印浄弁、老後につくしへ下侍し時、名残惜て人々歌読侍しに、祝の心を
  末とをくいきの松原ありてへばけふ別とも又ぞあひみん
(ロ)  浄弁法師つくしへまかり侍しに火うちつかはすとて
  うちすてゝわかるゝみちのはるけきにしたふおもひをたぐへてぞやる

 浄弁は前述のように、二条為世門四天王の一人で鎌倉末─南北朝期の代表的歌人である。尊経閣所蔵の浄弁筆『後撰和歌集』、『拾遺和歌集』奥書によると、浄弁は嘉暦二年(一三二七)四・五月は京都にいて両集を書写し、その後九州に下って鎮西探題匠作(北条英時)と大伴江州禅門(貞宗)に三代集を相伝している。この、九州での事績を伝える尊経閣所蔵浄弁筆『拾遺和歌集』奥書は次のとおりである。

  嘉暦二年五月三日申出師之御本、於河東霊山藤本庵拭七十有余老眼終数十ケ日書写功
                                権律師浄弁(花押)
  此集於宗匠御流者当世委細相伝之人稀者歟、傍若無人之由所存也、世間又無其隠乎、茲云稽古云機根
  抜群間、不残一事所伝授運尋也、何況乎鎮西探題匠作并大友江州禅門三代集伝授之時、読手度々勤仕、
  諸人不可貽疑之状如件
    正慶二年正月十五日                   浄弁(花押)

 北条(赤橋)英時は最後の鎮西探題として鎌倉幕府滅亡とともに博多で誅滅された。武家歌人として相当に高く評価されていたらしく、勅撰集への入集は、『続後拾遺和歌集』二、『風雅和歌集』一、『新拾遺和歌集』一、『新後拾遺和歌集』二という数である。私撰集では『続現葉和歌集』一、『臨永和歌集』七、『松花和歌集』四(内閣文庫賜蘆拾葉」巻一、国文学研究資料館、福岡市住吉神社、久曾神昇氏など所蔵)が知られる。
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いったん、ここで切ります。
井上宗雄氏は浄弁を康元元年(1256)頃の生まれとされているので、嘉暦二年(1327)には七十二歳、正慶二年(元弘三、1333)には七十八歳くらいですね。
なお、ついでに「和歌四天王」について基礎的な点を押さえておくと、井上氏は、

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 さて再び和歌四天王であるが、正徹はこれに何の限定も与えていないが、了俊ははっきり「為世卿門弟等の中には、四天王とか云て」と限定していることに注意すべきである。為世門の俊秀たる四歌人を指すのであって、宗匠一門を含めた歌壇全体の四名人の如き意でない事は自明である。更に浄弁が康永三年以後まもなく九十二歳前後の高齢で没し、即ちその活躍期が鎌倉末であることを思い合わせると、その四天王の時代というのも鎌倉最末期が中心になり、ついで南北朝初頭に及んでいたと見るべきであろう。
 しかし、為世門の高足ということは当時の歌壇全体においてもやはり高い地位であったには違いなく、この内、兼・頓は後宇多院から詠草を召され(各家集)、また浄弁も提出せしめられる程の存在であったらしい(第六章参照)。
 而して浄弁は一二五六年(康元)頃、兼好は一二八三年(弘安六)頃、頓阿は一二八九年(正応二)、慶運は一二九六年(永仁四)頃、能誉は一二六〇~八〇年(文永~弘安)代ころの生まれである事が推測され、この内、能誉は既に新後撰に隠名入集、能・頓・浄・兼は続千載に入集した。現存本続現葉には能4、頓2、浄2、兼3、慶運は1である。右によると、慶運は出生が遅い事といい、その若さの故か歌壇に認められた事(詠作は既に正和四年に残るが)の遅い事といい、能誉を四天王とする事が鎌倉最末期の歌壇情勢からいえば妥当であろう。結局、能誉が九州に下り最も早く没したらしい事、逆に浄弁が長命し、また慶運は父に引き立てられてか次第々々に歌壇においてその存在を知られてくる事によって、南北朝初頭には一応その名声も顕著になり、いつの頃にか能誉に代わって慶運が四天王に加えられたのであろう。
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とされています。(『中世歌壇史の研究 南北朝期』、p307)
浄弁は七十歳を超えて九州に下っていますが、別に能誉のように九州で死んだ訳ではなく、京都に戻って「康永三年以後まもなく九十二歳前後の高齢で没し」たとのことなので、ずいぶん元気な老人ですね。

浄弁(水垣久氏『やまとうた』サイト内)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jouben.html
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