学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「八方美人で投げ出し屋」考(その4)

2021-02-18 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月18日(木)20時28分25秒

ということで、尊氏と赤橋登子の婚姻時期について検討してみます。
まあ、別にこれは中世史研究者の多くが注目する重大問題という訳ではありませんが、清水克行氏が第一節「薄明のなかの青春」で描いた尊氏像が正しいのか、それとも単なる妄想なのかを判断する材料としてはそれなりに重要ですね。
まず、清水氏の見解を確認すると、清水氏は小見出しを「赤橋登子」とした上で、次のような推論を展開されます。(p26以下)

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 ところが、周囲の環境がそれを許さなかったようだ。尊氏は、最終的に北条一族の赤橋氏から赤橋登子を正室に迎えることになる。尊氏について書かれた伝記のなかには、登子との婚姻が尊氏の元服直後であるかのように記述している文献もあるが、その婚姻がいつのことであったのか、じつは明確な史料は存在しない。登子とのあいだの第一子、義詮が元徳二年(一三三〇)、尊氏二十六歳のときに生まれていることを考えれば、彼と登子の婚姻は、元服直後というよりは、それから十年近く経ってからのことだったのではないだろうか。
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実は清水氏の主張自体、ちょっと理解しにくい不整合があります。
清水氏は「尊氏は十五歳になると、当時の慣例にしたがい元服し、元応元年(一三一九)十月に朝廷から従五位下・治部大輔の官位を与えられている(『公卿補任』)」(p24)とされているので、「彼と登子の婚姻は、元服直後というよりは、それから十年近く経ってからのこと」となると、元徳元年(1329)頃となりそうです。
しかし、清水氏は上記部分に更にいくつかの推論を重ねた上で、

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 義詮誕生四年前の嘉暦元年(一三二六)には、これまで無位無官で放置されてきた尊氏の弟直義が、突然、二十歳で初めて従五位下・兵部大輔に叙任されている(『公卿補任』)。こうした直義の急な昇進なども、同時期の尊氏と登子との婚姻による足利氏と北条氏の接近という事態によってはじめて実現したものと思われる。
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とされており(p28)、「嘉暦元年(一三二六)」と「同時期」であれば先の記述とは三年ずれます。
「それから十年近く経ってから」ではなく、七年ですね。
ということで、何だかよく分からないのですが、細川重男氏の見解を紹介した上で、改めて考えてみたいと思います。
呉座勇一氏編『南朝研究の最前線』(洋泉社、2016)所収の「足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」において、細川氏は次のように書かれています。(p95以下)

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足利家における尊氏の立場

 尊氏に高義という異母兄があったことは近時特に注目され、高義についての研究が深まっている(清水:二〇一三)。金沢顕時の娘を母とする高義が父貞氏の嫡子、尊氏が庶子であったことは明らかである。
 だが、高義は尊氏十三歳の文保元年(一三一七)に二十一歳で早世した。尊氏は二年後の元応元年十月、十五歳で叙爵、治部大輔に任官している。
 同母弟の直義が、嘉暦元年(一三二六)に叙爵し兵部大輔に任官していることから、尊氏は叙爵時点では貞氏嫡子の地位が定まっておらず、嫡子確定は、子息の義詮が生まれた元徳二年(一三三〇)六月をそう遡らない時期との見解が近年出されている(清水:二〇一三)。
 だが、義詮の母、すなわち尊氏の正室は赤橋家出身の登子(一三〇六~六五)であり、登子は尊氏の一歳下、義詮誕生時には二十五歳である。尊氏と登子の婚姻を義詮誕生の直前とすれば、登子の婚姻は二十代中ごろとなり、当時の女性の婚姻年齢としては遅すぎる。
 例えば、北条時宗が安達義景(一二一〇~五三)の娘(貞時の母。一二五二~一三〇六)と婚姻した時、時宗は十一歳、義景の娘は十歳である。前述のごとく、赤橋家は得宗家およびその傍流に次ぐ家格であり、登子が二十歳過ぎまで婚姻しなかったとは考えがたい。
 また、直義の叙爵年齢は二十歳であり、これでも鎌倉末期の御家人としては十分に早く、足利氏の家格の高さを示すものではあるが、尊氏より五歳も遅い。尊氏との間に嫡庶の差があることは明白である。登子の兄赤橋守時(十六代執権。一二九五~一三三三)の叙爵が十三歳であることを考慮すれば、尊氏の叙爵年齢は赤橋家嫡子に准ずると言える。
 私見では、尊氏は十五歳での叙爵時点で足利氏の嫡子に定められており、登子との婚姻も叙爵の前後と考える。
 尊氏は祖父家時と同じく北条氏を母としなかったが、叙爵年齢や赤橋登子との婚姻からすれば、北条氏・鎌倉幕府の側は、家時同様に足利家嫡子として処遇したと言うことができる。尊氏が鎌倉幕府から離反した理由を、北条氏との関係の薄さに求める見解もあるが、足利氏の鎌倉幕府における地位はすでに安定しており、ことさらに強調すべきではない。
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清水氏の見解自体に不整合があるので、細川氏も若干困惑されたかもしれませんが、「尊氏と登子の婚姻を義詮誕生の直前とすれば、登子の婚姻は二十代中ごろとなり、当時の女性の婚姻年齢としては遅すぎる」という細川説は説得的ですね。
仮に「義詮誕生の直前」、即ち元徳元年(1329)ではなく三年前の嘉暦元年(1326)としても、登子は二十一歳ですから、やはり遅すぎますね。
結論として私は清水説は誤りだと考えますが、清水氏が自説の根拠のひとつとした仮名の問題、即ち元服時の尊氏の仮名が「三郎」ではなく「又太郎」であったことをどう考えるか、という問題は残ります。
この点は細川氏も特に言及されておられませんが、元応元年(1319)の時点では、高義遺児の存在を考慮して、尊氏は「中継ぎの嫡子」として扱われた可能性もあるのかな、と思います。
細川説に従って尊氏と赤橋登子との婚姻を元応元年(1319)頃とすると、義詮が生まれるまで十年ほどの時が流れることになりますが、まあ、これは普通にあることですね。
そして、竹若の誕生について、「逆算すれば、竹若は一三二〇年前後には誕生していたことになる」という清水氏の勘違いを修正して正中元年(1324)頃と考えれば、加子基氏の娘は「最初の妻」ではない可能性が高いですね。
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「八方美人で投げ出し屋」考(その3)

2021-02-18 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月18日(木)12時33分19秒

「妾腹の子」に続く小見出しは「兄高義の死」ですが、この部分は二年前に少し検討しました。

「尊氏の運命、ひいては大袈裟ではなく日本の歴史を大きく変える不測の事態」(by 清水克行氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71b81690120a880e7c1589183c634df0

リンク先の投稿で【後略】とした部分は、

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兄高義がわずか十九歳で家督を継承しているのに対し、尊氏が足利家家督の座に就くのは、父の死後、ようやく彼が二十七歳になってからのことだった。幼少期、"日陰の身"におかれていた尊氏の境遇は、必ずしも兄の死によって劇的に変化したわけではなく、その後も彼の存在は十年以上にわたって中途半端な立場におかれ続けていたのである。
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となっています。
「日陰の身」云々は、昭和どころか戦前の通俗大衆小説のようなチープな言語感覚ですね。
さて、次の小見出しは「最初の妻と子」です。(p24以下)
この部分に関しては細川重男氏の批判があり(『南朝研究の最前線』所収、「足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」)、私は細川説が正しいと思いますが、まずは清水説をそのまま紹介します。

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 尊氏は十五歳になると、当時の慣例にしたがい元服し、元応元年(一三一九)十月に朝廷から従五位下・治部大輔の官位を与えられている(『公卿補任』)。このとき尊氏が従五位下・治部大輔という官位を与えられたという事実をもって、尊氏が足利家の家督後継者として確定されたとする見解もあるが、後述するように、この数年後、尊氏がまだ従五位下であるときに、弟である直義にも従五位下・兵部大輔という官位が与えられている。とすれば、このとき尊氏が叙爵・任官されたこと、それ自体を即座に家督後継者の地位と結びつけることはできないだろう。
 むしろ、その一方で彼の元服の際の仮名(通称名)が「又太郎」であったということは無視できない。なぜなら、代々足利家の嫡男は「三郎」を名乗るきまりになっていたからだ。このきまりは厳密に守られ、先祖家氏は嫡男からはずされたことで、仮名を「三郎」から「太郎」に変えているほどである(家氏については、百十五頁参照)。兄の死後にもかかわらず、尊氏が「又太郎」と名づけられている事実は、このとき依然として彼が家督継承者としては微妙な地位にあったことを示しているのだろう。十代から二十代前半にかけての多感な年頃に尊氏がおかれた中途半端な立場は、その後の彼の人格形成に少なからぬ影響を与えているように、私には思えてならない。
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この後、清水氏は「こうした不安定な立場にあったときの尊氏の心の慰めになっていたもののひとつが、和歌の世界であった」(p25)として、歌人としての尊氏をほんの少し論じますが、この部分は別途検討します。
そして「最初の妻と子」についての具体的な説明となります。

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 そして、彼のもうひとつの心の支えとなったのが、小さいながらも彼が初めて築いた家族であった。尊氏には生涯六男四女、計十人の子女がいたことが確認できるが、その「長男」(『太平記』)となったのが竹若とよばれる男の子であった。系図『尊卑分脈』によれば、竹若は、足利家の庶流、加子基氏の娘と尊氏のあいだに生まれた子どもである。竹若は、伊豆山走湯権現(現在の静岡県熱海市)に住んでいたが、鎌倉幕府滅亡時、母の兄で密厳院別当の覚遍に匿われて、山伏姿で抜け出し、都を目指したとされる(『太平記』)。このとき竹若という幼名を名乗っていた以上、元服前であったことはたしかだが、山伏姿に変装して逃亡したとすれば、まったくの乳幼児であったとは考えにくい。おそらく当時十歳前後にはなっていたのではないだろうか。だとすれば、逆算すれば、竹若は一三二〇年前後には誕生していたことになる。尊氏がまだ十代後半頃のことである。
 竹若の母の父、加子基氏は足利泰氏の末子で、足利一族の庶家にあたる人物である。この頃、尊氏は足利家の後継候補の一人であったとはいえ、先行きは不透明で、実体は妾腹の二男坊であることを考えれば、その妻には加子氏ていどの身分の者こそがふさわしい。将来に対する展望が開けぬまま、当初、尊氏は加子氏との婚姻関係を築くことを真剣に模索していたようだ。そして、もしその路線が順調に維持されていたとすれば、尊氏も加子氏も竹若も、ごく普通の鎌倉御家人の家族として、ごく普通の人生を送っていたのかもしれない。
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うーむ。
いろいろ奇妙な記述が多いように感じますが、まず、竹若が鎌倉幕府滅亡時(1333)に数えで「十歳前後」だとしたら、「逆算すれば、竹若は一三二〇年前後には誕生していたことになる」訳ではなく、「一三二四年前後」であり、尊氏は「まだ十代後半頃」ではなく、「二十歳頃」ですね。
それと、「尊氏は加子氏との婚姻関係を築くことを真剣に模索していたようだ」とありますが、「真剣に模索していた」ことを根拠づける史料の存否を問うのは酷だとしても、そもそも竹若は、直冬などとは異なり尊氏も正式に認めていた子ですから、加子基氏の娘は正室ではないだけで、尊氏との間の「婚姻関係」は存在していたのではないですかね。
また、当時の「ごく普通の鎌倉御家人の家族」は一夫多妻だと思いますが、「彼のもうひとつの心の支えとなったのが、小さいながらも彼が初めて築いた家族」といった表現は何だか現代の一夫一婦制の「婚姻関係」を前提としているような感じで、これも奇妙ですね。
このように清水氏の叙述は、清水氏自身が大きく貢献された歴史学の最新の成果と、陳腐でチープなメロドラマのシナリオみたいな部分がまだら模様になっていて実にヘンテコなのですが、仮に加子基氏の娘が「最初の妻」でなかったら、そのヘンテコさは更に増大します。
そこで、尊氏と正室・赤橋登子との婚姻の時期が問題となってきます。
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