投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 2日(火)21時35分47秒
前回投稿で「旧領回復令」について私が書いたのは、後醍醐と護良の人間関係に着目した場合、佐藤進一説には何とも不自然な感じが漂うという印象論ですが、「旧領回復令」そのものの法的性格については、古くは佐藤氏と黒田俊雄氏の間に論争があり、最近も相当に議論が進んでいます。
その検討は現在の私には若干荷が重いのですが、今日、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)を読んでみたところ、最後の方に「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」、そして「綸旨万能主義」や雑訴決断所の機能などに関する近時の学説が簡潔に整理されていたので、後で少し紹介したいと思います。
『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/10/102510.html
さて、佐藤氏が根拠となる史料の不存在を自認しつ行なった「推定」によれば、「新政初期の所領対策をめぐって、護良勢力と高氏勢力は鋭い対立関係を示」しており、「後醍醐が両者にたいしていっそう微妙な関係をもつ第三の立場に立」って、三つ巴の緊張状態が続いたのだそうです。
そして、これが結局、佐藤氏が九月ごろと推定する護良の征夷大将軍「解任」で一応の決着を見る、という極めて慌ただしい展開となる訳ですが、佐藤氏のこのような「推定」の前提としては、尊氏が既に六波羅陥落直後から、自身の野望のために着々と旧御家人勢力を自己の勢力下に組み込んで行った、という認識があります。
この佐藤氏の認識は既に紹介済みですが、参照の便宜のために再掲すると、
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だが、このころ京都とその周辺では、後醍醐にとって意外な情勢が展開していた。一ヵ月前に潰え去ったはずの六波羅探題に代わって、京都奪取の殊勲者である足利高氏が新探題いな新将軍であるかのごとく京都の支配をかためつつあったからである。高氏は、すでに鎌倉幕府に反旗をひるがえした直後から、主として西国方面の守護やそれにつぐ有力な地頭らに密書を送って、討幕への参加をよびかけてきたのであったが、護良親王軍と連合して京都に進入し、六波羅軍を撃破すると、いち早く六波羅に陣を構えた。そして、旧探題配下の職員はじめ多数の御家人を吸収して、京都支配のリーダーシップを握り、さらに地方から続々と上洛する武士の多くを麾下に収めて、完全に護良の軍勢を圧倒し駆逐した。かれはまた楠木の千早城を攻囲していた幕府の大軍に六波羅の滅亡を告げて、帰属を呼びかけたので、多数の武士が囲みを解いてかれの下におもむいたと『太平記』は伝えている。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1452c8580aad085b8670d8d367eb7813
といった具合です。
そして、この基本認識がかつては不動の通説をなしていた訳ですが、吉原弘道氏は「建武政権における足利尊氏の立場」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)において、「後醍醐と尊氏は、緊密な連絡を取り合って全国規模での軍勢催促を行なっていた」こと、「尊氏による着到状の受理は、尊氏の個人的な野望のためではなく、後醍醐への仲介者の立場で行われていた」こと等を明らかにされました。
そして、「従来の通説的理解」、即ち佐藤説では「尊氏が政権の中枢から排除されていたと考えられてきた」ものの、尊氏は「鎮守府将軍として全国規模での軍事的権限」を有していて、「建武政権下において後醍醐は、尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行なうべき軍事的な実務を代行させて」おり、「このような尊氏の立場は、尊氏が個人的に勢力拡大を計った結果というよりも、鎮守府将軍への補任によって公的に付与された権限に由来していた」と結論付けられました。
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bf1d4692a37b7682187aecdf832d5e5e
(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1452c8580aad085b8670d8d367eb7813
(その10)(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d786a1c9c3f6ca793b91645bf32f9e1c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2f21d785a86111fa26b5cd3e4f374ec
(その15)(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/989850646f5823b76c039003fdb62205
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b332242463f314bc38b81ff3df51460
このような吉原説は後続の研究者たちによって基本的に支持され、現在では中先代の乱までは後醍醐と尊氏は決して対立関係にあった訳ではないことが多くの研究者の共通認識となっていると思われます。
例えば清水克行氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、
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だとすれば、この間の経緯から浮かび上がる尊氏像は、"武家の棟梁"としてのプライドのもと、新たな幕府を開くために野心をむき出しにした人物というよりは、あくまで後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者のひとりといったところだろうか。不屈の闘志を抱き、理想実現のためには手段を選ばない後醍醐とは、およそ対照的な人物といえるだろう。当初の尊氏は、あくまで後醍醐の政権に寄り添い、それを支える役割に徹していたといえる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61b3c1e6855c84111ec08862a7c0327b
と言われており、細川重男氏も清水氏のこの見方に賛成されています。
また、呉座勇一氏も、尊氏と護良を比較して、
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だが鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は天皇親政を志向し、摂関政治・院政・幕府政治を否定した。そんな後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった。また倒幕戦闘中、護良が勝手に令旨をばらまいたことも後醍醐は問題視した。この点でも後醍醐から綸旨を獲得し、綸旨に基づいて軍事行動を起こした尊氏の方が後醍醐の眼鏡にかなっていた。そこで後醍醐は尊氏を鎮守府将軍に任命し、建武政権の軍事警察部門の最高責任者にした。
建武政権において鎮守府将軍となった尊氏は「後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者」(清水克行氏)だった。後醍醐から見れば、護良より尊氏の方が自分に忠実で信頼できる存在だったのである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158
と言われています。
こうして、現在では建武新政期に後醍醐と尊氏が対立関係にあったという佐藤氏の基本認識が否定されているので、「朝敵所領没収令」に関する佐藤氏の「推論」も、その基礎が揺らいでいることになります。
前回投稿で「旧領回復令」について私が書いたのは、後醍醐と護良の人間関係に着目した場合、佐藤進一説には何とも不自然な感じが漂うという印象論ですが、「旧領回復令」そのものの法的性格については、古くは佐藤氏と黒田俊雄氏の間に論争があり、最近も相当に議論が進んでいます。
その検討は現在の私には若干荷が重いのですが、今日、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)を読んでみたところ、最後の方に「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」、そして「綸旨万能主義」や雑訴決断所の機能などに関する近時の学説が簡潔に整理されていたので、後で少し紹介したいと思います。
『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/10/102510.html
さて、佐藤氏が根拠となる史料の不存在を自認しつ行なった「推定」によれば、「新政初期の所領対策をめぐって、護良勢力と高氏勢力は鋭い対立関係を示」しており、「後醍醐が両者にたいしていっそう微妙な関係をもつ第三の立場に立」って、三つ巴の緊張状態が続いたのだそうです。
そして、これが結局、佐藤氏が九月ごろと推定する護良の征夷大将軍「解任」で一応の決着を見る、という極めて慌ただしい展開となる訳ですが、佐藤氏のこのような「推定」の前提としては、尊氏が既に六波羅陥落直後から、自身の野望のために着々と旧御家人勢力を自己の勢力下に組み込んで行った、という認識があります。
この佐藤氏の認識は既に紹介済みですが、参照の便宜のために再掲すると、
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だが、このころ京都とその周辺では、後醍醐にとって意外な情勢が展開していた。一ヵ月前に潰え去ったはずの六波羅探題に代わって、京都奪取の殊勲者である足利高氏が新探題いな新将軍であるかのごとく京都の支配をかためつつあったからである。高氏は、すでに鎌倉幕府に反旗をひるがえした直後から、主として西国方面の守護やそれにつぐ有力な地頭らに密書を送って、討幕への参加をよびかけてきたのであったが、護良親王軍と連合して京都に進入し、六波羅軍を撃破すると、いち早く六波羅に陣を構えた。そして、旧探題配下の職員はじめ多数の御家人を吸収して、京都支配のリーダーシップを握り、さらに地方から続々と上洛する武士の多くを麾下に収めて、完全に護良の軍勢を圧倒し駆逐した。かれはまた楠木の千早城を攻囲していた幕府の大軍に六波羅の滅亡を告げて、帰属を呼びかけたので、多数の武士が囲みを解いてかれの下におもむいたと『太平記』は伝えている。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1452c8580aad085b8670d8d367eb7813
といった具合です。
そして、この基本認識がかつては不動の通説をなしていた訳ですが、吉原弘道氏は「建武政権における足利尊氏の立場」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)において、「後醍醐と尊氏は、緊密な連絡を取り合って全国規模での軍勢催促を行なっていた」こと、「尊氏による着到状の受理は、尊氏の個人的な野望のためではなく、後醍醐への仲介者の立場で行われていた」こと等を明らかにされました。
そして、「従来の通説的理解」、即ち佐藤説では「尊氏が政権の中枢から排除されていたと考えられてきた」ものの、尊氏は「鎮守府将軍として全国規模での軍事的権限」を有していて、「建武政権下において後醍醐は、尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行なうべき軍事的な実務を代行させて」おり、「このような尊氏の立場は、尊氏が個人的に勢力拡大を計った結果というよりも、鎮守府将軍への補任によって公的に付与された権限に由来していた」と結論付けられました。
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bf1d4692a37b7682187aecdf832d5e5e
(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1452c8580aad085b8670d8d367eb7813
(その10)(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d786a1c9c3f6ca793b91645bf32f9e1c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2f21d785a86111fa26b5cd3e4f374ec
(その15)(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/989850646f5823b76c039003fdb62205
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b332242463f314bc38b81ff3df51460
このような吉原説は後続の研究者たちによって基本的に支持され、現在では中先代の乱までは後醍醐と尊氏は決して対立関係にあった訳ではないことが多くの研究者の共通認識となっていると思われます。
例えば清水克行氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、
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だとすれば、この間の経緯から浮かび上がる尊氏像は、"武家の棟梁"としてのプライドのもと、新たな幕府を開くために野心をむき出しにした人物というよりは、あくまで後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者のひとりといったところだろうか。不屈の闘志を抱き、理想実現のためには手段を選ばない後醍醐とは、およそ対照的な人物といえるだろう。当初の尊氏は、あくまで後醍醐の政権に寄り添い、それを支える役割に徹していたといえる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61b3c1e6855c84111ec08862a7c0327b
と言われており、細川重男氏も清水氏のこの見方に賛成されています。
また、呉座勇一氏も、尊氏と護良を比較して、
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だが鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は天皇親政を志向し、摂関政治・院政・幕府政治を否定した。そんな後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった。また倒幕戦闘中、護良が勝手に令旨をばらまいたことも後醍醐は問題視した。この点でも後醍醐から綸旨を獲得し、綸旨に基づいて軍事行動を起こした尊氏の方が後醍醐の眼鏡にかなっていた。そこで後醍醐は尊氏を鎮守府将軍に任命し、建武政権の軍事警察部門の最高責任者にした。
建武政権において鎮守府将軍となった尊氏は「後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者」(清水克行氏)だった。後醍醐から見れば、護良より尊氏の方が自分に忠実で信頼できる存在だったのである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158
と言われています。
こうして、現在では建武新政期に後醍醐と尊氏が対立関係にあったという佐藤氏の基本認識が否定されているので、「朝敵所領没収令」に関する佐藤氏の「推論」も、その基礎が揺らいでいることになります。