学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

高義母・釈迦堂殿の立場(その3)

2021-02-26 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月26日(金)18時15分4秒

旧サイト『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』で荒川玲子氏の「景愛寺の沿革-尼五山研究の一齣-」(『書陵部紀要』28号、1976)やバーバラ・ルーシュ氏の「無外如大の場合」(『もう一つの中世像』所収、思文閣出版、1991)、原田正俊氏の「女人と禅宗」(『中世を考える-仏と女』所収、吉川弘文館、1997)、そして山家浩樹氏の二つの論文に即して無外如大についてあれこれ考えていたのは2001年の春です。
以来、早くも二十年の月日が経ってしまいましたが、無外如大は時々話題になるので多少は情報の更新をしていたものの、無着については全くノータッチでした。
今回、釈迦堂殿の母である無着を中心に据えて再考してみたところ、無着は上杉清子や赤橋登子などの尊氏周辺の女性の生き方を考える上で本当に参考になる女性ですね。
(その2)で無着と釈迦堂殿の生年をそれぞれ建長五年(1253)頃、建治元年(1275)頃と推定してみましたが、この当たらずといえども遠からず程度の推定に基づいて無着の人生を時系列で整理してみると、

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建長五年(1253)頃 安達泰盛の娘として誕生
年次不明      金沢顕時(1248生)の正室(後室?)となる
建治元年(1275)頃 女子(釈迦堂殿)誕生
年次不明      無学祖元の弟子となる
弘安六年(1285)  霜月騒動で父・泰盛を始め一族郎党滅亡 顕時出家、下総国埴生庄に移る
永仁元年(1293)  四月二十二日、平禅門の乱。二十七日、顕時鎌倉に戻る
永仁二年(1294)  十月、顕時、引付四番頭人に補任される
永仁四年(1296)  正月、顕時、引付三番頭人に補任される
年次不明      女子(釈迦堂殿)が足利貞氏の正室となる
永仁五年(1297)  女子(釈迦堂殿)が高義を生む
正安三年(1301)  三月二十八日、顕時卒去、五十五歳
年次不明      京都に移る 今小路に居住
          資寿院を創建
文保元年(1317)  十二月十五日付の「静念の御房」宛の大仏貞直書状あり
          この日までに逝去か
文保二年(1318)  三月十二日の「西禅寺長老」宛ての大仏貞直書状あり
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といった具合です。
安達泰盛の娘として生まれ、結婚相手も北条一族の名門、そして男子には恵まれなかったものの二十代で子供も出産していますから、弘安六年(1285)の霜月騒動までは本当に恵まれた人生ですね。
しかし、霜月騒動で父親を始め家族・一族郎党は殆ど皆殺しとなり、以後、平禅門の乱までの八年間は夫とともに逼塞を余儀なくされたものと思われます。
無学祖元の弟子となったのは霜月騒動の前か後かは分かりませんが、無学祖元は弘安二年(1279)に来日し、弘安九年(1286)九月三日示寂なので、時期はかなり限定されますね。
出家の時期は顕時と一緒かもしれませんが、女性で無学祖元の弟子というのは相当に珍しい存在であり、親族の菩提を弔うといった一般的な女性の出家理由とは動機が異なるように感じます。
さて、平禅門の乱の直後に顕時は鎌倉に戻り、幕府の要職に就任しますが、正安三年(1301)に五十五歳で卒去となります。
無着が京都へ移った時期は分かりませんが、顕時卒去の翌正安四年(乾元元、1332)、貞時が六波羅探題南方として上洛するので、これに同行したのかもしれません。
そうだとすれば、この時、無着は五十歳くらいですね。
この年齢で鎌倉から京都に移り、資寿院を創建した訳ですから、無着は単なる個人的な信仰を超えた目的を持ち、それを実現する強い意志を持った知的な女性と考えてよいと思います。
三十代頃に苦難の時期があったけれども、それを乗り越えて五十歳を超えて新天地である京都に向かい、無学祖元の弟子という誇りを胸に理想の禅院を作ろうとした極めて知的な女性、というのが私の想定する無着像です。
文保二年(1318)三月十二日の「西禅寺長老」宛ての大仏貞直書状に見られる「今小路禅尼之素意」という表現は明らかに「今小路禅尼」が死去していることを示しており、前年十二月十五日付の「静念の御房」宛ての大仏貞直書状も「今小路禅尼」の死去を前提とするものと読むのが自然ですから、仮に没年が文保元年(1317)とすれば六十五歳くらいとなりますね。
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高義母・釈迦堂殿の立場(その2)

2021-02-26 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月26日(金)12時39分11秒

無外如大と無着の履歴が混同されて出来上がった「安達千代野」については、ウィキペディアの記事がよく纏まっていますね。

安達千代野
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E5%8D%83%E4%BB%A3%E9%87%8E

鎌倉の海蔵寺には「底脱の井」がありますが、リンク先サイトはこの井戸にまつわる千代野伝説を丁寧に紹介しています。

鎌倉海蔵寺の「底脱の井」にまつわる話。
https://www.visiontimesjp.com/?p=3678

また、岐阜県関市の松見寺も千代野ゆかりの寺として有名で、同寺の公式サイトには、

-------
松見寺は、岐阜県美濃地方屈指の由緒ある禅寺である。鎌倉時代中期に室町幕府初代将軍足利尊氏公の祖母に当たる俗名千代野が広見の里に草庵を訪ね、ここで禅の修行をつみ大悟(悟りをひらく)し、鎌倉に帰ったのち、再度広見の地を訪ねて開山となり、以降古くより「千代野寺」としても多くの人に親しまれている。
 現在も境内には、歴史を偲ばす「開山お手植えの大杉(関市天然記念物)」が悠然とそびえている。
https://shoukenji.1net.jp/achievements.html#contents

などとあります。
さて、山家氏は「無外如大の創建寺院」(『三浦古文化』53号、1993)を書かれた五年後に「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301号、1998)を書かれ、無外如大と無着の履歴の混同を解明されました。
つまり前者の時点では山家氏自身も無外如大と無着を混同されていた訳ですが、後者を読んでから前者を読むと、無着の後半生も割と明瞭に浮かび上がってくるように感じます。
特に興味深いのが次の史料です。

-------
 鎌倉時代の資寿院を伝える史料に、次の二通の文書がある(7)。

資寿禅院の事、くわんれい仕候へきよし、かしこまり候てうけ給候ぬ、かやうの事ハ、はしめても思たちたく存候に、かくのことく御計のうゑハ、本木松木嶋事、ゆめ/\しさいあるましく侯、御心やすくこそおほしめされ侯ハめと申させ給へく侯、あなかしこ/\
  文保元※十二月十五日   貞なを(花押影)
  静念の御房
         申させ給ヘ

資寿禅院事、任今小路禅尼之素意、有御執務、可被致御祈祷候、恐々謹言、
      文保二年三月十二日 散位(花押)
     西禅寺長老         ○右の花押に同じ

如大の死後と思われる文保元(一三一七)年、大仏貞直は、資寿院の外護者となり、翌年、西禅寺長老の管轄のもとに置いている。今小路禅尼は、如大を指すのか、その後継者か、明らかでない。
 如大が資寿院に寄進した本木松木嶋の保証をしている点から推測すると、大仏貞直は、このとき在京していたのであろう。貞直は、元応二(一三二〇)年頃、関東で引付頭人となるが、それ以前の活動は明らかでない。この頃、大仏惟貞が六波羅探題南方に在職しており、あるいは惟貞に従っていたのかもしれない。

http://web.archive.org/web/20061006213232/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai-jiin.htm

山家氏は「今小路禅尼は、如大を指すのか、その後継者か、明らかでない」とされますが、資寿院を創建したのは無外如大ではなく無着ですから、ここに登場する「今小路禅尼」は無着でしょうね。
「任今小路禅尼之素意」とあるので、文保二年(1318)の時点では無着は亡くなっていたものと思われます。
今小路は京都の地名なので無着は京都に居住していた訳ですが、いつの時点で鎌倉から京都に移ったかというと、夫の金沢顕時が正安三年(1301)三月二十八日に五十五歳で亡くなり、翌乾元元年(1302)七月七日に貞顕が六波羅探題南方として上洛しているので、貞顕の上洛と一緒か、その少し後あたりでしょうか。
貞顕は父・顕時の側室である遠藤為俊女の子なので無着は実母ではありませんが、二人の関係は悪くはなく、資寿院建立にも貞顕の援助があったものと想像されます。
ところで貞顕は延慶元年(1308)十二月に六波羅南方を辞し、鎌倉に戻りますが、同三年(1310)六月二十五日、六波羅北方として再度上洛します。
そして、正和三年(1314)に六波羅北方を辞して十一月十六日、鎌倉に戻り、翌四年(1315)七月十一日、連署に補任されます。
この貞顕の動向と上記の二つの文書を照らし合わせると、貞顕は資寿院の保護を在京の大仏貞直に依頼していた、ということではなかろうかと思います。
無着はさすがに安達泰盛の娘だけあって、視野が広く、行動力に富んだ極めて知的な女性のような感じがします。
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