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「このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動」(by 小松茂美氏)

2020-12-25 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月25日(金)11時19分33秒

森茂暁氏が言及されていた小松茂美氏の『足利尊氏文書の研究』(旺文社、1997)は研究篇、図版篇、解説篇、目録・資料篇に分かれた全四巻の大著で、大きさと重さだけでも圧倒されますね。
「Ⅰ 研究篇」の「自序」には、

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 本著に収録した「足利尊氏文書」は、すべて二七二通。われながら驚くばかりの数に膨れ上がった。当初から、この数量が展望の中に在ったわけではない。
 もとはといえば、私が所属している財団法人センチュリー文化財団理事長赤尾一夫氏が、一日、ふと洩らされた一言。「室町幕府歴代将軍の筆跡集は編めないものなのか」と。南北朝から室町時代、政治史の上において、文化史の中において、激動の時代であった。激しい時代の推移の中に、貴族文化と武家文化、それに加えて禅林文化の織り成す経緯の絢の変化の妙。それに多大の追慕と関心を寄せられていた、と。この言葉が私の心底に点火、たちまちのうちに胸中に燃え熾った。本著の動機はその一瞬であった。
 まず、室町幕府歴代将軍の書跡が、いかほど現存するものなのか。三十三年間の長い東京国立博物館勤務の私の眼前を、おびただしい室町将軍の筆跡群が過った。が、王朝貴族の和様の書に心魅かれた私は、無我夢中、古筆を一途に追い続けて定年を迎えた。しかしながら、折に触れて足利尊氏・足利義満の瀟洒枯淡の筆の美は、眼底に深くふかく焼きついていた。心に決めた瞬間、眼の前を通過した将軍たちの各人各様の筆跡が、目まぐるしく脳裏を駆け巡る。異常な興奮の波濤が、胸に迫り、私の決意を不動のものにした。
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とあって、小松氏はキャラも濃ければ文章も濃いですね。
さて、同書「Ⅲ 解説篇」の5~7番に、今問題にしている小絹布の三通の文書の解説が載っています。
5番が「嶋津上総入道殿」、6番が「阿曾前太宮司殿」、7番が「大友近江入道殿」宛てで、いずれも四月二十九日付となっています。
5番の解説に、文書の大きさは「たて七・〇センチ、よこ六・一センチメートル」とあって、本当に小さなものですね。
7番の解説から少し引用します。(p38以下)

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7 足利高氏軍勢催促状(小絹布) 元弘三年四月二十九日  29歳
                   柳川市・立花寛茂氏蔵
                  「大友文書」
【原文】
自伯耆国蒙 勅命候之間
令参候之処遮御同心之由承
候之条為悦候其子細申御
使候畢 恐々謹言、
  四月廿九日  高氏(花押)
 大友近江入道殿

【読み下し文】
伯耆国より 勅命を蒙り候の間、参らしめ候の処、遮って(わざわざ)御同心の由、
承わり候の条、為悦(よろこび)に候、その子細は御使に申し候い畢んぬ。恐々謹言。
  四月廿九日               高氏(花押)
 大友近江入道殿

 この書状もまた、前掲の嶋津上総介入道貞久(図版5)、阿蘇前大宮司宇治惟時(図版6)宛てと同様、絹布の小片に書かれた髻文書〔もとどりもんじょ〕である。宛所の「大友近江入道」は、近江守・左近衛将監(従五位相当)を歴任して、薙髪入道して法名具簡〔ぐかん〕を号した大友貞宗〈?─一三三三〉である。
 大友氏の始祖は豊前守能直〈一一七二─一二二三〉で、その本貫地が相模国大友郷(小田原市東大友・西大友・延清)であったことから、大友氏を称した。
【中略】
 元弘三年〈一三三三〉三月十三日、菊池武時(四十二歳)・少弐貞経らと盟約して、鎮西探題北条英時を討たんとしたが、大友貞宗は貞経とともに変心したため、武時を援けることなく、軍を退いた。このため、武時はひとり博多を攻めたが、あえなく敗死した。すでに前項に述べたとおりである。三月十六日、大友貞宗は少弐貞経とともども、博多に軍兵を差向けて、探題府の警護につとめた。同二十日、後醍醐天皇の綸旨を奉じて下向来着した勅使八幡弥四郎宗安を斬ったことも、既述のとおりである。かような緊迫の情勢の中に、四月二十九日、図版(7)軍勢催促の書状が高氏の許から届いたのである。
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いったん、ここで切ります。
【中略】とした部分には、大友能直〔よしなお〕が源頼朝の寵童であったことが『吾妻鏡』を引用しつつ丁寧に書かれています。
それと大伴系図ですね。
ところで、小松氏は「遮」を「わざわざ」という意味に解されています。

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 ところが、ここに不思議なのは、前記一連の軍勢催促状は、四月二十七日ならびに同二十九日付の文書で、いずれも同一の文面に基づいて、参陣や味方合力を求めたものである。にもかかわらず、この書状によれば、四月二十九日現在において、早くも「遮って御同心の由、承わり候の条、為悦〔いえつ〕に候、その子細は御使に申し候い畢んぬ」(早速にも強いて御承知下さるとのこと、まことにうれしく思います。委細のほどは御使者に説明いたします)という。文面によれば、これは大友貞宗にとって二度目の受信のように思われる。まず、足利高氏の最初の書面を受理して、即刻、「御加勢つかまつる」と承諾の返書を高氏の丹波国篠村陣所に急送している様子。その書信を披見した高氏が、満足の面持ちで再度の筆をしたためさせたのが、この書状のように思われる。それにしても、後醍醐天皇差遣の勅使を斬り捨てた、いわば大反逆人にひとしい大友貞宗が、その血刀の乾く間もないわずか四十日の間に、高氏との間にいかなる裏面工作を推進したものなのか。このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動は、所詮、歴史の波の中に沈んでしまって、永遠に解き明かすこと不可能の謎であろうか。
 ちなみに、この文書の右肩に小紙片を貼付して、「筆者粟生入道云々」と注記を加えている。つまり、この文書を粟生〔あおう〕入道(研究篇・第三章の「第二節 粟生左衛門入道道禅」参照)が書いたというのである。この注記を持つ図版(7)は、前記(図版5・6)ともに同筆である。つまり、この絹布の小裂に書かれた小さな三通の軍勢催促状は、ともに足利高氏幕下の「粟生入道(道禅)」がしたためたものというのである。
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小松氏は「遮」を「わざわざ」、「早速にも強いて」と解されていますが、これは森茂暁氏の説明のように、「「起る或る事に対して先んじる、すなわち先立ってする」(『時代別国語大辞典室町時代編三』三省堂、五三頁)ことで、簡単にいえば「先手を打って」という意」で間違いないのでしょうね。
「遮」の解釈も影響して、小松氏は「文面によれば、これは大友貞宗にとって二度目の受信のように思われる」と考察し、「まず、足利高氏の最初の書面を受理して、即刻、「御加勢つかまつる」と承諾の返書を高氏の丹波国篠村陣所に急送している様子。その書信を披見した高氏が、満足の面持ちで再度の筆をしたためさせたのが、この書状のように思われる」とされますが、まあ、豊後と丹波はあまりに遠く、この日程はおよそ無理ですね。
また、小松氏は「御使」を大友が尊氏に送った使者と解して、その使者に尊氏側の詳しい事情を説明した、と解されていますが、「御使」については、やはりちょっと気になりますね。
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