学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その3)

2020-12-23 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月23日(水)10時27分24秒

私にとって重要なのは「四 足利尊氏の立場」以降なのですが、念のため、吉原氏の古文書分析の手法も少し見ておきます。(p35以下)

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一 元弘の乱における足利尊氏

(一)足利尊氏の離反過程

 後醍醐天皇による倒幕運動は、元亨四年(一三二四)九月の正中の変、元徳三年(一三三一)四月の元弘の変、元弘三年(一三三三)五月七日の六波羅探題陥落(京都合戦)、同二十一日の鎌倉陥落(関東合戦)、同二十五日の鎮西探題滅亡(鎮西合戦)を以て完結する。この中で、元弘の変~鎮西探題滅亡(幕府倒壊)までが元弘の乱と総称される。以下、元弘の乱末期における足利尊氏の動向を具体的に明らかにしていきたい。
 尊氏と後醍醐の接触については、「太平記」などの軍記物語に具体的な記述がある。しかし、軍記物語は、史料としての信憑性に問題が残る。そこで、一次史料の発給者・受給者の所在に着目して、尊氏の動向を明らかにしていきたい。
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いったん、ここで切ります。
細かいことですが、鎌倉陥落は五月二十一日ではなく二十二日ですね。
また、尊氏と後醍醐の接触について軍記物語の記述を確認しておくと、西源院本『太平記』では「京着の翌日」即ち四月十七日に尊氏が後醍醐に使者を送ったとしています。
他方、『梅松論』では何時から連絡を取ろうとしたのかは明記していませんが、細川和氏・上杉重能が後醍醐の綸旨を近江の鏡宿で尊氏に見せたとしているので、『太平記』よりは相当前ということになりますね。
『太平記』の日程では使者の往復だけ考えてもあまり余裕がなく、どちらかといえば『梅松論』の方が信頼できそうですが、所詮、両方とも「史料としての信憑性に問題が残る」のは吉原氏の言われる通りです。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a46f158b52f4cd899778e568c07a3c1

さて、吉原論文に戻ります。(p36以下)

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【史料A】
 自伯耆国、蒙 勅命候之間、令参候之処、遮御同心之由承候之
 条為悦候、其子細申御使候畢、恐々謹言、
    (元弘三年)          (足利尊氏)
     四月廿九日           高氏(花押)
   (具簡・貞宗)
    大友近江入道殿

 史料Aは、尊氏が発給した書状の中の一通である。しかし、一連の書状と史料Aとでは、その記載内容が大きく異なっている。通常のものは、多少の異同はあるものの単に合力を依頼した軍勢催促状である。これに対して史料Aは、書き出しは同じものの「遮御同心之由承候之条」と大友貞宗の同心を承知したことが述べられている。
 史料Aは、尊氏から貞宗への後醍醐方としての最初の書状である。にもかかわらず、尊氏は、四月二十九日段階で貞宗の同心を知っていたのである。勿論、尊氏の離反が突発的なものでなく、それなりの経緯と理由を持ち合わせていたことは否定しない。しかし、当時筑前博多に在った貞宗が、京都に在った尊氏の離反を事前に察知して同心を伝えたとは考え難い。尊氏の離反が露見するのは、軍勢催促状を一斉に発給した四月二十七日以降であり、前左大臣二条道平の日記にも「(元弘三年四月)廿七日、官軍向八幡、大将軍名越尾張守(高家)・搦手足利治部大輔高氏」とある。少なくとも二十七日まで尊氏は、表面上は幕府方として活動していたのである。とすれば、両者を繋ぐ人物の介在を想定しなくてはならない。
 当時、貞宗と尊氏の両者を味方に引き入れ、連絡を取ることのできた人物としては後醍醐と護良親王の二人が想定される。四人の地理的関係を考えれば、山城近辺に在った護良よりも伯耆に在った後醍醐の可能性が高い。事実、後醍醐から貞宗に三月二十日の段階で軍勢催促が行われている。その後、両者の間に協力関係が結ばれたであろうことは想像に難くない。そこで問題となってくるのは、尊氏と後醍醐の接触がなされた時期である。次の史料Bは、尊氏と後醍醐の接触を考えるうえで注目される。
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「事実、後醍醐から貞宗に三月二十日の段階で軍勢催促が行われている」に付された注(12)を見ると、

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(12) 「博多日記」元弘三年三月二十三日条(『角川文庫 太平記』一、五二一頁)には、「去廿日(中略)院宣ヲ大友殿ニ奉付之間」として貞宗に後醍醐天皇綸旨が届けられたとの記述がある。但し、大友氏は、この時点では使者を捕らえて探題に引き渡している。
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とあります。
さて、史料Aを見て、古文書に詳しい人が気になるのは「遮御同心之由承候之条」の「遮」だと思います。
この点については、森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)に説明がありますので、次の投稿で紹介します。
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