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「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)

2020-12-24 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月24日(木)10時52分33秒

吉原弘道氏が挙げる「史料A」については森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)により詳しい説明があるので、その部分を引用します。(p64以下)

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 足利尊氏が伯耆国の後醍醐の討幕命令をうける形で、配下の武士たちに討幕の挙兵を呼びかけたのは元弘三年四月末のことである。詳しくは以下の該当箇所で述べるが、ここではその尊氏の後醍醐との接触にさきだつ、九州の豊後国を本拠地とする有力武士大友貞宗の動向、および彼を含んだ九州の武士たちのそれについて述べておきたい。
 結論的にいえば、筆者は足利尊氏に先んじて、豊後の大友貞宗が伯耆の後醍醐と接触したのではないかと考えている。ここを掘り下げることによって尊氏と後醍醐の結びつきが絶対的なものではなく、むしろ相対的であることをうかがうことができる。
 まず以下の史料をみよう。小松茂美『足利尊氏文書の研究Ⅱ(図版篇)』(旺文社、一九七七年九月、二二頁)などに収録される著名な足利尊氏書状である(柳川市「大友家文書)。

  「筆者粟生入道云々」
 自伯耆国、蒙 勅命候之間、令参候之処、遮御同心之由承候之条、為悦候、其子細申
 御使候畢、恐々謹言、
   (元弘三年)      (足利)
    四月廿九日       高氏(花押)
        (貞宗・具簡)
       大友近江入道殿

 この文書についてはすでに吉原弘道の言及がある(「建武政権における足利尊氏の立場」、「史学雑誌」一一一-七、二〇〇二年七月)。冒頭の別筆「筆者粟生入道云々」にみる「粟生入道」とはこの文書の染筆者で、能登国羽咋郡粟生保〔あおほ〕を名字地とした粟生四郎左衛門入道道禅であることが小松茂美によって指摘されている(『足利尊氏文書の研究Ⅰ(研究篇)』九九-一〇二頁)。粟生入道は足利尊氏の被官の一人であったと考えられる。九州の有力武士に向けて発された、小絹布に書かれた三通の尊氏書状(右の豊後大友貞宗のほか、肥後阿蘇惟時、薩摩島津貞久あて)はすべてこの「粟生入道」の筆である。小松はさらに、粟生入道がこれらの書状を書いたのは丹波篠村宿の尊氏陣営においてであるとしている。
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いったん、ここで切ります。
冒頭に「配下の武士たちに討幕の挙兵を呼びかけたのは元弘三年四月末のこと」とありますが、「配下」という表現は変ですね。
尊氏は四月二十七日と二十九日に各地の武士に書状を送りますが、例示されている大友貞宗を含め、いずれもこの時点で尊氏の「配下」ではありません。
細かいことですが。
さて、続きです。

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 問題となるのは、右の大友貞宗あて尊氏書状の「遮御同心之由承候之条、為悦候、其子細申御使候畢」の箇所である。同種の尊氏書状は四月二七日付(一三点)と四月二九日付(右の三点)の計一六通が知られているが、その文言についてみると、ほぼすべて「自伯耆国、蒙 勅命候間参候、令合力給候者、本意候、恐々謹言」という基本型をくずさないが、ただ一点、右掲の豊後の大友貞宗あてのものだけが異彩を放っている。
 となると足利尊氏の大友貞宗への対応は、他のものたちへのそれとは異なっていたとみなければならない。ではなぜ尊氏が貞宗を特別に扱ったかというと、貞宗のもつ後醍醐との関係の特殊性にほかなるまい。
 そうしたことを念頭において右の尊氏書状の文言をみよう。尊氏はまず、このたびの討幕の軍事行動は伯耆の後醍醐天皇の勅命をうけたものだということを強調する。これに続く「遮御同心之由承候之条、為悦候」はいかなる事実を背後に秘めているか。ポイントとなるのは「遮御同心」である。「遮」(さえぎって)とは「起る或る事に対して先んじる、すなわち先立ってする」(『時代別国語大辞典室町時代編三』三省堂、五三頁)ことで、簡単にいえば「先手を打って」という意である(用例として『看聞日記』嘉吉三年<一四四三>六月二五日条の嘉吉の乱のくだり「所詮赤松(満祐)可被討御企露見之間、遮而討申云々」をみよ。『続群書類従本下』六三〇頁)。とすれば「遮御同心」とは、大友貞宗が足利尊氏に先んじて、後醍醐と接触し討幕への戮力を申し出たとみなければなるまい。尊氏は自分より前に貞宗がそのような行動をとったことをおそらく後醍醐サイドから聞いて「為悦候」とひとまず心強く思ったことを告げ、さらに「其子細申御使候畢」、つまり細かなことは御使に申してあります、といっているのである。他の書状が具備する「早相催一族、可被参候」という文言もない。尊氏─貞宗間の格別の連携はすでにここで成立したとみてよい。
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長々と引用してしまいましたが、「遮」の詳しい説明は助かりますね。
ただ、「其子細申御使候畢」は「細かなことは御使に申してあります」で良いのでしょうか。
森氏の解釈だと、尊氏書状を持参した使者に詳しい話を伝えてあるのでお聞きください、という意味になると思いますし、そのような文例は普通にあるのでしょうが、ただ、「御使」と敬語を使っている点が気になります。
あるいはこれは後醍醐の勅命を尊氏に伝えた使者のことで、その使者から貞宗が「遮御同心之由」と、後醍醐・貞宗間の事情の「子細」を尊氏が聞いた、という意味に解することは無理なのでしょうか。
私は古文書については全くの素人なので、勘違いだったら直ぐに訂正しますが、どなたかご教示いただけるとありがたいです。
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