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人生初の『南北朝遺文 関東編』

2020-12-05 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月 5日(土)18時06分18秒

私が古文書学について全くの素人と言っているのは謙遜でも何でもなくて、単純な事実です。
実は私は『南北朝遺文 関東編』の編纂者の一人である角田朋彦氏とは二十年来の知り合いで、以前、角田氏が主宰する研究会(再興中世前期勉強会)の月例会にずっと出ていたことがあります。
その角田氏が『南北朝遺文 関東編』を担当されて、なかなか苦労されている様子はご本人から直接聞いていたのですが、私自身は鎌倉時代にしか興味がなく、おまけに私には古文書愛が全くないので、角田氏の古文書に関する蘊蓄は、鎌倉時代関係だと聞き耳を立てていたものの、南北朝関係の話は全て馬耳東風、馬の耳に念仏、猫に小判ということで、「あっしには関わりのないことでござんす」(by 木枯らし紋次郎)と聞き流していました。
ちなみに角田氏も私と同じく群馬県出身です。
ま、私はそんな人間なので、角田氏を含む編纂者の方々が辛苦を重ねて編まれた『南北朝遺文 関東編第一巻』を読んだことはおろか、手に取ったことすらなく、実に今回が初めてであります。
ちなみに、さすがに『鎌倉遺文』の方は必要に応じてチラチラ見ていましたが、研究者の方からよく聞く「総捲り」みたいなことは一度もやったことがありません。
さて、『南北朝遺文 関東編第一巻』を手にとって開いてみると、巻頭に佐藤和彦氏の「序」があります。

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 あれは、何時のことであったろうか、と考えねばならぬほど、もうかなり昔のことである。
 早稲田の研究室で、竹内理三先生から、『南北朝遺文関東編』編纂のお誘いをうけた。その時、先生が示された条件は、いわゆる関東八ヵ国の文書だけでなく、必ず、越後と信濃の文書を組み込むことであった。さらに、次のような御助言をいただいた。『遺文』のように、長期にわたる編纂作業には、最終的には、多くの人のサポートが必要となる。編纂方針に賛同する人材が集まってくれるまで、運・鈍・根の精神で待ち続けることが大切であると。あまりうれしくて、「はい」と大声で返事をした。
 十数年はあっというまに過ぎ去った。『関東編』に、越後と信濃の文書を組み入れることを目標に、ほんの少しずつではあるが、カードを取り、関連史料を蒐集していった。やがて、山田邦明・伊東和彦・角田朋彦の諸氏が参加してくれるようになり、編集体制が整えられた。この数年、関連文書の蒐集に没頭した。もちろん、十全ではないが、それなりの史料集になったと思う。ぜひとも、読者諸氏からの厳しいご批判をいただきたい。二巻以降の編纂に生かしていく所存である。
 本書出版にあたり、貴重なご指導をいただいた竹内理三先生と瀬野精一郎先輩に深く感謝したく思う。さらに、わたくしたちの我儘を許し、いつも気さくに、最後の最後までつきあっていただいた東京堂出版編集部松林孝至氏の友情にお礼を申し上げたく思う。
  二〇〇六年五月十日
                 佐藤和彦
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そして、「序」に続く「例言」の最後には、

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 本書の編集は佐藤和彦氏が中心となり、伊東和彦・山田邦明・角田朋彦を加えた計四名が協力して進め、東京堂出版の松林孝至が作業のとりまとめを行ったが、第一巻の編集がほぼ終了というときに、佐藤氏は逝去された。なんとか刊行にこぎつけた本書を霊前に捧げたい。
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とあります。
奥付の佐藤氏の経歴を見ると、「二〇〇六年五月十三日没」とあるので、ご逝去は実に「序」の日付の三日後ですね。
私自身は佐藤氏のお話を何回か聞き、何かの飲み会の席で一度だけ同席した思い出を持つ程度ですが、ずいぶん突然のご逝去であったことは記憶しています。

佐藤和彦(1937~2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%92%8C%E5%BD%A6

ところで、同書附録の『月報1』(2007年5月)には峰岸純夫氏の「新田義貞と足利尊氏─佐藤和彦さんの思い出と重ねて─」という二節に分かれたエッセイが載っていて、佐藤氏の思い出を語る第一節の冒頭には、

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 吉川弘文館の『人物叢書』で、佐藤和彦さんが『足利尊氏』を書き、私が『新田義貞』を書くと決まってからかなり長い年月が経過したように思う。私は、あまり催促のないことをよいことにしてなかなか書かなかったが、七〇歳を越えてもう先があまりないと悟ったのと、同郷の山本隆志さんのミネルヴァ書房『新田義貞』より先に出したいということも重なって、重い腰を上げて二〇〇五年にようやく刊行することが出来た。どうもこれは、佐藤さんにプレッシャーになったように思えてならない。佐藤さんが一度倒れられて、一時回復された時に、「峰岸さんやりますよ、数日前には尊氏が生まれ育ったという丹波国上杉荘の調査に行ってきましたよ。」と明るく話していました。その時私は、元気になった佐藤さんの様子を一面では嬉しく感じるとともに、あのような大きな病気の後で、もう現地調査などに行っていいのか、担当医の許可は出ているのだろうかなどと、一抹の不安を禁じえなかったのである。
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とあります。
そして、その最後は、

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 佐藤さんの作業を継承する山田邦明・伊東和彦・角田朋彦さんたちによって、本書一巻が完成したことは大変嬉しいことである。出来れば、私がこの世を去るまでに全六巻のすべての完成を見るならば、府中ゼミの状況とともに、あの世で佐藤さんに報告して喜んでもらうことが出来るだろう。
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と纏められています。
『南北朝遺文 関東編』は編纂者に清水亮氏を加え、当初予定より一巻多い全七巻を出して2017年に完結しましたが、「七〇歳を越えてもう先があまりないと悟」り、「出来れば、私がこの世を去るまでに全六巻のすべての完成を見るならば」などと言われていた峰岸氏はまだご存命で、2017年に『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(講談社選書メチエ)を出すなど、執筆活動も衰えていないご様子ですね。
ちなみに峰岸氏も群馬県出身で、「同郷の山本隆志さん」も同じです。

『南北朝遺文 関東編第七巻』
http://www.tokyodoshuppan.com/book/b221872.html
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