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高義母・釈迦堂殿の立場(その5)

2021-02-28 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月28日(日)12時02分55秒

ということで、釈迦堂殿の母・無着の人生はある程度追えますが、釈迦堂殿の方は少し難しいですね。
こちらも生年を建治元年(1275)頃と仮定して、その人生を時系列で整理してみると、

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建治元年(1275)頃 金沢顕時の娘として誕生
弘安六年(1285)  霜月騒動で母方の祖父・泰盛、殺される
          父顕時も出家、下総国埴生庄に移る
永仁元年(1293)  四月二十二日、平禅門の乱。二十七日、顕時鎌倉に戻る
年次不明      足利貞氏の正室となる
永仁五年(1297)  高義を生む
正安三年(1301)  三月二十八日、父顕時死去、五十五歳
年次不明      母・無着、京都に移る 今小路に居住 資寿院を創建
文保元年(1317)  六月、高義、二十一歳で死去
同年        十二月十五日付の「静念の御房」宛の大仏貞直書状あり
          この日までに無着逝去か
年次不明      高義のため、鎌倉浄妙寺の隣に延福寺を建立
暦応元年(1338)  九月九日死去
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といった具合です。
延福寺云々と死去については山家浩樹氏「無外如大と無着」の注4に従いました。

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 無着の娘釈迦堂殿は、足利貞氏に嫁ぐ。貞氏の室は、他に上杉清子が知られるが、出自から釈迦堂殿にあたる人物が正妻で、一時家督を嗣ぎながら早生した高義は、釈迦堂殿の子と考えられる(千田孝明氏「足利氏の歴史」『足利氏の歴史』所収、栃木県立博物館、1985年、など参照)。『稲荷山浄妙禅寺略記』(浄妙寺蔵、『鎌倉』 六四に翻刻)では、清子を正室とし、側室で高義の母「仁和寺殿契忍大姉」は、高義のため、鎌倉浄妙寺の隣に延福寺を建立し、暦応元年(1338)九月九日に死去したという。釈迦堂殿と仁和寺殿契忍大姉は同一人物であろうが、詳細は未詳である。貫達人・川副武胤氏著『鎌倉廃寺辞典』(有隣堂、1980年)延福寺の項参照。

http://web.archive.org/web/20061006220942/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai-02.htm

釈迦堂殿の母・無着の場合、安達泰盛の娘として非常に恵まれた娘時代を送り、金沢顕時の正室となって女子(釈迦堂殿)を生んでから三十代前半くらいで霜月騒動に遭遇していますが、釈迦堂殿は十一歳くらいで霜月騒動の混乱に巻き込まれ、おそらく顕時と一緒に下総国埴生庄に移って、華やかな鎌倉を遠くから眺める生活が続いたものと思われます。
結婚の時期が高義を生んだ永仁五年(1297)の前年とすると二十二歳くらいとなり、当時の武家社会の女性としては若干遅い感じもしますが、建治元年(1275)出生という推測自体があくまで一応のものなので、生年はもう少し遅れるのかもしれません。
ただ、そうだとすれば霜月騒動までの恵まれた少女時代は更に短くなります。
また、母・無着の死去の時期は分かりませんが、無着が亡くなったことにより資寿院の管理の問題が生じたとすると「静念の御房」宛の大仏貞直書状の日付、文保元年(1317)十二月十五日をそれほど遡らないのではないかと思います。
とすると、母・無着と息子・高義の死去はかなり近く、あるいはともに文保元年、釈迦堂殿が四十三歳くらいのときの出来事かもしれません。
もちろん、以上の事実から釈迦堂殿の人生観・世界観を窺うことは困難ですが、少なくとも若年の頃から自分が安達泰盛の孫であることを強く意識せざるを得なかったであろうことは確実です。
無着にとって、そして釈迦堂殿にとって安達泰盛はいかなる存在であったのか。
歴史学の世界で安達泰盛や霜月騒動が本格的に論じられるようになったのはかなり遅く、多賀宗隼氏の「弘安八年「霜月騷動」とその波紋」(『歴史地理』78巻6号、1941)を嚆矢とするも、それほど活発に論じられた訳ではなく、網野善彦氏の研究を経て、現在最も有力なのは村井章介氏の見解(『北条時宗と蒙古襲来』、NHK出版、2000)かと思います。
弘安改革を主導した理念の政治家で、蒙古襲来を契機に国政における幕府の位置づけを大きく変えようとしたものの、旧来の御家人の利益を固守する平頼綱らの勢力に敗北した人、というのが現在の大方の評価ではないかと思いますが、鎌倉後期に生きた人々にとっては、この種の理念の政治家はなかなか分かりにくい存在であった可能性が高そうです。
ただ、娘の無着や孫の釈迦堂殿は、霜月騒動の内情について相当に詳しい知識を持った上で、世間がどのように言おうと、安達泰盛がしっかりした理念を持った優れた政治家であったとの誇りをもって生きていたのではないかと私は想像します。
そして、そうした安達泰盛に関する知識や安達泰盛の理念が、娘・孫によって多少理想化されていたかもしれない形で尊氏や直義に伝わった可能性も相当高いのではないか、と考えることも、一応の合理的な推論の範囲ではないかと思います。

安達泰盛(1231-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B3%B0%E7%9B%9B
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