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「八方美人で投げ出し屋」考(その6)

2021-02-22 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月22日(月)12時03分44秒

亀田俊和氏の『観応の擾乱』(中公新書、2017)を足利直冬を中心に据えて読み直してみたのですが、直冬はなかなか難しい存在ですね。
そして『太平記』は本当に煮ても焼いても食えないテキストだなあ、と改めて感じました。
また、尊氏が庶子の直冬を嫌っていた訳ではないとすると、清水克行氏が描く足利尊氏の「薄明のなかの青春」も、ますます奇妙な物語になってきますね。
(その5)で引用した「尊氏と登子の婚姻が義詮誕生の直前であったとすれば、直冬の母「越前ノ局」なる女性は、尊氏が登子と婚姻を結ぶ直前に、尊氏と「一夜通ヒ」の性愛関係をもったことになるだろう」に続いて、清水氏は次のように書かれています。(p30)

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 本来なら日の目をみることのない"妾腹の二男坊"の境遇から、兄の不慮の死によって足利家の家督後継者に祭りあげられ、周囲から北条一族との婚姻までお膳立てされてゆく過程で、二十代前半の尊氏の胸中にはいかなる感慨があったのか。いまは推測する手立てはない。しかし、想像をたくましくすれば、直冬の母との一夜限りの関係は、自身の意向とは無関係に運命の階段を上らされていく尊氏が、婚姻前不安〔マリッジブルー〕のなかで表わした、自身の運命へのささやかな抵抗であったのかもしれない。しかし、そうした若き日の焦燥のなかで犯した一夜の過ちの代償は、あまりに高く、この後、彼を生涯にわたって深く苦しめ続けるのである。
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史料に基づいて「推測する手立てはない」にも関わらず、「想像をたくましくす」るのが清水氏の常套的な思考パターンですね。
そして、「若き日の焦燥のなかで犯した一夜の過ちの代償」といった具合に、実際には「若き日の焦燥」という単なる「推測」に別の「推測」を重ねているだけなのに、前の「推測」がいつの間にか事実に転化してしまうのも清水氏の思考パターンの特徴です。
さて、尊氏の家族関係について、細川重男説に従って尊氏と正室・赤橋登子との婚姻時期を尊氏の叙爵前後とし、時系列に従って整理すると、

元応元年(1319)頃 赤橋登子を正室に迎える
元亨三年(1323)頃 加子基氏女を側室とする
正中元年(1324)頃 加子基氏女、竹若を産む
嘉暦元年(1326)頃 「越前局」に「一夜通ヒ」(?)
嘉暦二年(1327)頃 「越前局」、直冬を産む
元徳二年(1330)  赤橋登子・義詮を産む

となります。
若くして有力な北条一門・赤橋家から正室を迎え、正室になかなか子供が生まれないためか側室も迎え、時々は正室・側室ではない女性とも「性愛関係」を持つということですから、足利家が「特権的支配層」(細川氏の用語)の一員であったという点を除けば、なんとも平凡な「ごく普通の鎌倉御家人の家族」(p26)ですね。
以上は尊氏と正室・赤橋登子との婚姻時期について細川説に従った場合の話ですが、この種の人的関係の相場観は「鎌倉政権上級職員表」(『鎌倉政権得宗政権論』)をまとめた細川氏の判断が信頼できますね。
ということで、清水氏が描く「薄明のなかの青春」とは異なり、尊氏は兄・高義の死を受けて若くして足利家の嫡子となったのであって、決して「日陰の身」(p24)ではなく、「十年以上にわたって中途半端な立場におかれ続けていた」(同)訳でもなく、「十代から二十代前半にかけての多感な年頃に尊氏がおかれた中途半端な立場は、その後の彼の人格形成に少なからぬ陰影を与え」(p25)た訳でもなさそうですね。
また、竹若の母との関係は「小さいながらも彼が初めて築いた家族」(同)ではなく、赤橋登子との婚姻は「先々代家時の二の舞はもうごめんだ。そう考えて、足利家内外の何者かが仕掛けた弥縫策」(p28)ではなく、それが「おそらく足利家の執事であった高師重あたりの画策」(同)ということもなさそうです。
そして、「義詮誕生四年前の嘉暦元年(一三二六)には、これまで無位無官で放置されてきた尊氏の弟直義が、突然、二十歳で初めて従五位下・兵部大輔に叙任されている(『公卿補任』)。こうした直義の急な昇進なども、同時期の尊氏と登子との婚姻による足利氏と北条氏の接近によって初めて実現したもの」ではなく、義詮の誕生の「その陰で、加子氏の娘と、それ以前に尊氏と彼女とのあいだに生まれていた竹若の運命が暗転」(同)した訳でもなく、「尊氏は北条一族との婚姻により、家督後継者としての座を確かなものとしたが、その地位は、青春の日にみずからが築こうとした小さなひとつの家族の犠牲のうえに成り立つものだった」(p29)訳でもない、ということになります。
つまり、清水氏が描いた「薄明のなかの青春」は殆どが単なる妄想ということですね。
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