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「彼の子息で禅僧となった松蔭常宗は、嵯峨の善成邸に蓬春軒、のちの松厳寺(松岩寺)を開いた」(by 赤坂恒明氏)

2021-02-15 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月15日(月)10時07分29秒

ついでなので、小川剛生氏『二条良基研究』(笠間書院、2005)の「附章 四辻善成の生涯」から、四辻善成の親族関係を少し見ておきます。
歴史学の研究者で四辻善成に興味を持っている人は少ないでしょうが、国文学の世界では『河海抄』の著者として有名な人です。
ちなみに『河海抄』を始め、『源氏物語』の古注釈書は『水原抄』(源光行・源親行)、『細流抄』(三条西実隆)、『山下水』(三条西実枝)、『岷江入楚』(中院通勝 )、『湖月抄』(北村季吟)といった具合に水っぽいタイトルが多いですね。

源氏物語研究の水分
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/53728bd65df1659c9ce5633243cffb50

小川論文は、

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一 はじめに
二 四辻宮家の成立
三 廷臣としての善成(1)
四 廷臣としての善成(2)
五 源氏学者としての善成(1)
六 源氏学者としての善成(2)
七 歌人としての善成(1)
八 歌人としての善成(2)
九 歌人としての善成(3)
十 おわりに
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と構成されていますが、第三節の冒頭から引用します。(p558以下)

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 善成は、尊卑分脈の一本の注記より逆算すると、嘉暦元年(一三二六)の生である。父は善統親王の男、尊雅王(田中本帝系図・尊卑分脈)。母は未詳。
 善成の係累についての史料は極めて乏しく、系譜にも疑問が多い。殊に父王には殆ど事績が伝わらず、僅かに善統が亡くなる前年に所領を譲られた「四辻若宮」という人物がおり、元亨三年(一三二三)までは生存していて、これが尊雅王と考えられるだけである。但し善統は八十五歳の高齢で没したというから、果たしてその実子かどうかも疑われてくる。
 系譜上は善統─尊雅─善成となっているが、尊雅と善成はともに岩倉宮忠房の実子であった可能性がある。忠房は弘安末年(一二八七)頃の生で、嘉暦元年には四十歳前後である。善統の最晩年には岩蔵宮との相論も決着し、忠房は後宇多院に頗る愛されその猶子となって立身していたから、もし善統に跡を継ぐべき王子がいなければ、忠房の男が四辻宮の継嗣に立てられることはありえなくはないのである。【中略】
 なお、兄と伝えられるのが、禅僧無極至玄(一二八二-一三五九)である。しかし四十四歳も上であるから善統の子かも知れない。臨済宗夢窓派に属し、天龍寺第二世住持となった。善成も禅宗に帰依し、中納言の時、春屋妙葩より法名を授けられたことが河海抄巻二〇、寺習の「きせいたいとくになりて」の注、中書本系統の一本に加えられた裏書に見えている。
 智泉聖通(一三〇九-一三八八)は十七歳の姉である。石清水八幡宮の祠官善法寺紀通清に嫁した。その女には足利義詮の寵を受け、義満・満詮を産んだ従一位良子、後光厳院の後宮に入り、後円融院の生母となった崇賢門院仲子がいる。このため聖通は晩年公武の尊崇を受けた。曇華院の開基である。
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小川氏は善成の父・尊雅王には「殆ど事績が伝わらず」とされていますが、赤坂恒明氏の『「王」と呼ばれた皇族』(吉川弘文館、2020)には若干の追加的情報がありますね。
ま、それでも僅かではありますが。
尊雅王は生年も不明ですが、善統親王は貞永二年(天福元、1233)生まれ、無極至玄は弘安五年(1282)生まれなので、その間をとって正嘉年間(1257~59)くらいの誕生でしょうか。
ただ、仮に1258年生まれとすると、1326年生まれの善成は尊雅王が六十九歳のときの子となり、あり得ないことではないとしても若干不自然な感じは否めません。

「絹本著色無極志玄像」(『文化遺産データベース』サイト内)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/278423/2

十七歳上の姉・智泉聖通は足利義満(1358-1408)と後円融院(1358-93)の外祖母で、この関係が今谷明氏の義満皇位簒奪説のひとつの根拠となりましたが(『室町の王権』)、今では今谷説の支持者は殆どいない状況ですね。
さて、善成は青年期はそれほど恵まれた境遇でもなかったようですが、二条良基の庇護を受け、更に義満との関係で最終的には従一位・左大臣となります。
その経歴はなかなか興味深い点が多いのですが、足利尊氏との直接の関係は殆どないので、小川論文の紹介はこの程度にとどめておきます。
なお、赤坂恒明氏の『「王」と呼ばれた皇族』には、

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 四辻善成は、官位を上昇させ、ついには従一位・左大臣という高位・高官にまで昇った。これは、彼が足利義満の母方の大叔父であったためでもあったろう。
 左大臣に任じられた後、善成は、さらに親王となることを望んだ。しかし、この希望は叶えられず、応永二年(一三九五)八月、左大臣を在任一ヵ月余りで辞退して出家し、嵯峨に移り住んだ。
 彼の子息で禅僧となった松蔭常宗は、嵯峨の善成邸に蓬春軒、のちの松厳寺(松岩寺)を開いた。松厳寺は、明治時代に天龍寺の境内に移転し、天龍寺の塔頭として現在に至っている。
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とあります。(p223)
「蓬春軒」は赤坂著で初めて知りましたが、それが松厳寺(松岩寺)となった経緯を含め、もう少し調べてみようと思います。

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『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流』
日本の皇族の一員でありながら、これまで十分に知られることのなかった「王」。平将門の乱を扇動した興世(おきよ)王、源平合戦を引き起こした以仁(もちひと)王、天皇に成り損ねた忠成王など、有名・無名のさまざまな「王」たちの事績を、逸話も織り交ぜて紹介。影が薄い彼らに光を当て、日本史上に位置づける。皇族の周縁部から皇室制度史の全体像に迫る初めての書。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b487640.html
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