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「八方美人で投げ出し屋」考(その3)

2021-02-18 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月18日(木)12時33分19秒

「妾腹の子」に続く小見出しは「兄高義の死」ですが、この部分は二年前に少し検討しました。

「尊氏の運命、ひいては大袈裟ではなく日本の歴史を大きく変える不測の事態」(by 清水克行氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71b81690120a880e7c1589183c634df0

リンク先の投稿で【後略】とした部分は、

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兄高義がわずか十九歳で家督を継承しているのに対し、尊氏が足利家家督の座に就くのは、父の死後、ようやく彼が二十七歳になってからのことだった。幼少期、"日陰の身"におかれていた尊氏の境遇は、必ずしも兄の死によって劇的に変化したわけではなく、その後も彼の存在は十年以上にわたって中途半端な立場におかれ続けていたのである。
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となっています。
「日陰の身」云々は、昭和どころか戦前の通俗大衆小説のようなチープな言語感覚ですね。
さて、次の小見出しは「最初の妻と子」です。(p24以下)
この部分に関しては細川重男氏の批判があり(『南朝研究の最前線』所収、「足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」)、私は細川説が正しいと思いますが、まずは清水説をそのまま紹介します。

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 尊氏は十五歳になると、当時の慣例にしたがい元服し、元応元年(一三一九)十月に朝廷から従五位下・治部大輔の官位を与えられている(『公卿補任』)。このとき尊氏が従五位下・治部大輔という官位を与えられたという事実をもって、尊氏が足利家の家督後継者として確定されたとする見解もあるが、後述するように、この数年後、尊氏がまだ従五位下であるときに、弟である直義にも従五位下・兵部大輔という官位が与えられている。とすれば、このとき尊氏が叙爵・任官されたこと、それ自体を即座に家督後継者の地位と結びつけることはできないだろう。
 むしろ、その一方で彼の元服の際の仮名(通称名)が「又太郎」であったということは無視できない。なぜなら、代々足利家の嫡男は「三郎」を名乗るきまりになっていたからだ。このきまりは厳密に守られ、先祖家氏は嫡男からはずされたことで、仮名を「三郎」から「太郎」に変えているほどである(家氏については、百十五頁参照)。兄の死後にもかかわらず、尊氏が「又太郎」と名づけられている事実は、このとき依然として彼が家督継承者としては微妙な地位にあったことを示しているのだろう。十代から二十代前半にかけての多感な年頃に尊氏がおかれた中途半端な立場は、その後の彼の人格形成に少なからぬ影響を与えているように、私には思えてならない。
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この後、清水氏は「こうした不安定な立場にあったときの尊氏の心の慰めになっていたもののひとつが、和歌の世界であった」(p25)として、歌人としての尊氏をほんの少し論じますが、この部分は別途検討します。
そして「最初の妻と子」についての具体的な説明となります。

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 そして、彼のもうひとつの心の支えとなったのが、小さいながらも彼が初めて築いた家族であった。尊氏には生涯六男四女、計十人の子女がいたことが確認できるが、その「長男」(『太平記』)となったのが竹若とよばれる男の子であった。系図『尊卑分脈』によれば、竹若は、足利家の庶流、加子基氏の娘と尊氏のあいだに生まれた子どもである。竹若は、伊豆山走湯権現(現在の静岡県熱海市)に住んでいたが、鎌倉幕府滅亡時、母の兄で密厳院別当の覚遍に匿われて、山伏姿で抜け出し、都を目指したとされる(『太平記』)。このとき竹若という幼名を名乗っていた以上、元服前であったことはたしかだが、山伏姿に変装して逃亡したとすれば、まったくの乳幼児であったとは考えにくい。おそらく当時十歳前後にはなっていたのではないだろうか。だとすれば、逆算すれば、竹若は一三二〇年前後には誕生していたことになる。尊氏がまだ十代後半頃のことである。
 竹若の母の父、加子基氏は足利泰氏の末子で、足利一族の庶家にあたる人物である。この頃、尊氏は足利家の後継候補の一人であったとはいえ、先行きは不透明で、実体は妾腹の二男坊であることを考えれば、その妻には加子氏ていどの身分の者こそがふさわしい。将来に対する展望が開けぬまま、当初、尊氏は加子氏との婚姻関係を築くことを真剣に模索していたようだ。そして、もしその路線が順調に維持されていたとすれば、尊氏も加子氏も竹若も、ごく普通の鎌倉御家人の家族として、ごく普通の人生を送っていたのかもしれない。
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うーむ。
いろいろ奇妙な記述が多いように感じますが、まず、竹若が鎌倉幕府滅亡時(1333)に数えで「十歳前後」だとしたら、「逆算すれば、竹若は一三二〇年前後には誕生していたことになる」訳ではなく、「一三二四年前後」であり、尊氏は「まだ十代後半頃」ではなく、「二十歳頃」ですね。
それと、「尊氏は加子氏との婚姻関係を築くことを真剣に模索していたようだ」とありますが、「真剣に模索していた」ことを根拠づける史料の存否を問うのは酷だとしても、そもそも竹若は、直冬などとは異なり尊氏も正式に認めていた子ですから、加子基氏の娘は正室ではないだけで、尊氏との間の「婚姻関係」は存在していたのではないですかね。
また、当時の「ごく普通の鎌倉御家人の家族」は一夫多妻だと思いますが、「彼のもうひとつの心の支えとなったのが、小さいながらも彼が初めて築いた家族」といった表現は何だか現代の一夫一婦制の「婚姻関係」を前提としているような感じで、これも奇妙ですね。
このように清水氏の叙述は、清水氏自身が大きく貢献された歴史学の最新の成果と、陳腐でチープなメロドラマのシナリオみたいな部分がまだら模様になっていて実にヘンテコなのですが、仮に加子基氏の娘が「最初の妻」でなかったら、そのヘンテコさは更に増大します。
そこで、尊氏と正室・赤橋登子との婚姻の時期が問題となってきます。
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