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四条隆顕の女子は吉田定房室

2017-12-13 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月13日(水)22時33分51秒

基礎的な事実を書き忘れてしまいましたが、四条隆顕の法名が「顕空」であることは『公卿補任』建治三年に出てきます。
まず、前年の建治二年(1276)に、

大納言正二位、<四条>藤隆親(七十四)
十二月廿還任(依明年正月主上御元服上寿事。罷子息隆顕諸職任之)。同廿七日賜兵部卿兼字。

権大納言正二位<四条>藤隆顕(三十四)
十二月廿辞退(依父隆親卿還任也)。

とあり、波瀾を予感させます。
ついで、建治三年(1277)を見ると、

大納言正二位、<四条>藤隆親(七十五)
兵部卿。正月三日御元服上寿。二月二日辞退之由被仰下之。

とあり、また散位の方に、

前権大納言正二位<四条>同隆顕(三十五)
五月四日出家(法名顕空)。与父卿不和不調之所行等之故云々。

となっています。
『とはずがたり』の記述とは若干の齟齬はありますが、ま、父親と不和になって出家した、ということですね。
出家といっても宗教的な要素は皆無です。
そして、『とはずがたり』の記述とは異なり、四条隆顕が出家後まもなく死んだりしなかったことも『公卿補任』嘉暦二年(1327)に明らかであって、この年、初めて『公卿補任』に登場する四条隆資のところに、

参議正四位下<四条>藤隆資
三廿四任。元蔵人頭右中将。
父故入道権大納言隆顕卿。母。

とあります。
母は分からないので空白ですね。
父が「故入道権大納言隆顕卿」とありますが、『尊卑文脈』では隆顕の子が隆実(早世)、隆実の子が隆資になっており、四条隆資は父親が早世したために祖父・隆顕の養子となった訳ですね。
死者が養子を取ることは無理ですから、隆顕は隆資が生まれた永仁元年(1293)には存命であり、嘉暦二年(1327)までに亡くなったということになります。
ずっと以前、ある国文学者が隆顕の死について、『公卿補任』より近親者の記録である『とはずがたり』の方が信頼できる、みたいなことを書いているのを読んで、暫し茫然としたことがあります。
ま、『とはずがたり』は話を面白くするためには叔父でも殺す、という方針で書かれた自伝風小説である、というのが私の考え方です。
さて、『増鏡』の最後に登場する四条隆資が『とはずがたり』で活躍する善勝寺大納言・四条隆顕の孫であることは、私がかつて開設していたサイト、『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』でも強調しておきましたが、隆顕の女子も面白い存在ですね。
『尊卑文脈』によれば、隆顕には隆任・隆実・隆清の男子三人と女子一人がいて、この女子は「内大臣〔藤〕定房室」です。
内大臣定房とは、いうまでもなく後醍醐天皇の乳父で側近中の側近である吉田定房(1274-1338)のことですね。
『増鏡』巻十三「秋のみ山」には、元亨二年(1322)正月三日の朝覲行幸、即ち後醍醐天皇が父・後宇多法皇の御所を訪問する行事の詳細な描写がありますが、その場面に吉田定房が登場します。(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』p82以下)

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 とばかりありて寝殿の母屋の御簾みなあげ渡して法皇出でさせ給へり。香染の御衣、同じ色の御袈裟なり。御袈裟の箱置かる。内の上、公卿の座より勾欄をへ給う。御供に関白さぶらひ給ふ。階の間より出で給ひて、庇に御座参りたれば、御拝し給ふ程、西東の中門の廊に、上達部多くたち重なりて見やり奉る中に、内の御めのとの吉田の前大納言定房、まみいたう時雨たるぞあはれに見ゆる。そのかみのことなど思ひ出づるに、めでたき喜びの涙ならんかし。
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「天皇のおもり役吉田の前大納言定房は目もとがたいそう涙に濡れているのが感慨深くみえた。まだ皇子であったころのことなどを思い出すにつけて、めでたいうれし涙が流れたのであろう。」(井上訳)
ということで、非常に好意的な紹介の仕方ですね。
小川剛生氏は『二条良基研究』(笠間書院、2005)の「終章」において、

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 だいたい、増鏡は極めて懐の深い文学であり、一方向からの読み方によって評価を下せるような作品ではないが、敢えて大きな主題の一つを提示すれば、全体の五分の二もの分量を宛てて僅か十五年ほどに過ぎない後醍醐の治世を描くことと、その事蹟を顕彰せんとする姿勢であろう。必ずや、作者は後醍醐を深く敬慕する人でなくてはならないだろう。
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と言われており(p584)、この見解の是非は後でゆっくり検討しますが、『増鏡』が「全体の五分の二もの分量を宛てて僅か十五年ほどに過ぎない後醍醐の治世を描」いていることは確かです。
そして、その中には先に紹介した堀川具親と大納言典侍の「うきにまぎれぬ恋しさ」のエピソードのように、いったいどこからこれほど詳しい情報を得たのか不思議に思われる話がたくさんありますね。
ま、仮に後深草院二条が『増鏡』の著者であれば、四条隆資(従兄弟の息子)と吉田定房(従姉妹の夫)の二人を情報源として確保できそうなので、この二人がいたら後醍醐天皇の周辺における出来事は全て把握できるだろうなとは思います。
むしろ、多すぎる情報の中から、書いてはいけないことをどう削るか、に悩むくらいじゃないですかね。
なお、「顕空上人」が正安3年(1301)11月に関東から上洛したことを記した『吉続記』の著者・吉田経長(1239-1309)は吉田定房(1274-1338)の父親です。
「顕空上人」が四条隆顕ならば、「顕空上人」は自分の娘の義父を訪問したことになりますね。

善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/384ce32a71c0e831d5d007c2d0967bfb

吉田定房(1274-1338)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AE%9A%E6%88%BF

>筆綾丸さん
>二律背反的なことのように思われ、

一般論で答えるとしたら、複数の奉公先を持つ「兼参」が当たり前なのが中世的世界、ということなんでしょうね。
ま、御家人もピンからキリまでありますから、小規模の御家人は自営業よりは会社に入った方が生活が安定するので会社を選ぶ、といったら比喩が乱暴すぎるでしょうか。
得宗家の御内人などは、就職先があれよあれよと言う間に巨大企業に急成長して、普通の中小企業の社長よりもよっぽど高給取りになりました、みたいな感じもします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「二律背反?」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9163
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