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「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その5)

2018-02-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月28日(水)13時16分30秒

2月25日の投稿で、清水克行氏(と五味文彦氏)の『兼好法師』評には賛同できる、みたいなことを書いたのですが、清水氏が、

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文学作品は読者のものであり、作者の意図は必ずしも重要ではなく、まして生涯・境遇などは顧慮しなくてよいとする立場もある。しかし、解釈の前提となる最低限の知識が根拠を欠いたまま、作品論が独り歩きして良いとは思えない。この著者の意見に耳の痛い国文学研究者は少なくないだろう。「よく知らぬよしして、さりながら、つまづまあはせて語る虚言は、恐しきことなり」(『徒然草』73段)。

http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20171211-OYT8T50031.html

などと述べている点は、国文学研究者をのんびり批判しているヒマがあったら、何故、今回の小川氏の業績が清水氏を含めた中世史研究者から出て来なかったのかを恥じ入るべきではないか、という感じもします。
勅撰集の作者表記に着目された小川氏の慧眼は国文学者ならではと思いますが、系図の偽造を扱うのは歴史学研究者の基礎訓練の範囲で、特に吉田家が詐欺師の集団であり、吉田兼倶(1435-1511)はその元締めだということは、中世史研究者の大半が知っていた訳ですからね。
ま、それはともかく、早歌などの中世歌謡についても歴史学研究者が本気になって取り組めば相当面白い結果が出て来るように思うのですが、五味、じゃなくてゴミのような武家古文書の研究をチマチマやっている人が多い一方で、中世歌謡を扱うことができる歴史学研究者は五味文彦氏などごく僅かです。
そんな訳で、国文学者の早歌研究には歴史学研究者の検証が殆ど入っておらず、私も1911年生まれの外村久江氏の業績にそのまま乗っていいのか、若干の不安はあるのですが、早歌の創始者であり大成者でもある明空(月江)の高弟・比企助員が金沢北条氏の被官であったこと、「助員の背後にもうひとり与州という物心両面の庇護者のいた事が知られ」「この予州というのは伊予守のことで、金沢文庫で知られる金沢貞顕の兄弟の顕実ではないかと考え」られること、「顕実の子の顕香は作曲者の一人」であること(『鎌倉文化の研究』「第八章 早歌の大成と比企助員」)等からすれば、金沢北条氏が早歌の隆盛をもたらした、いわば早歌の温床のような空間であったことは間違いないと思います。
そして、そこに永仁四年(1296)までに現われた、「源氏」「源氏恋」の二曲を作詞・作曲したシンガーソングライターの「白拍子三条」とは何者なのか。
早歌の作詞はある程度の漢籍・和歌の素養があればそれほど難しいものではなく、貴族・僧侶、そして上級武士にも可能ですが、作曲もできる人は相当珍しいはずです。
ところで『とはずがたり』によれば、正応二年(1289)三月、三十二歳の尼二条は鎌倉を初めて訪れ、将軍に伺候する「土御門定実のゆかり」の「小町殿」と交流し、放生会を見物したりしているうちに惟康親王が将軍を廃されて京都に追放されることとなって、その様子を見物します。
また、新将軍の後深草院皇子・久明親王が鎌倉入りする前に、「小町殿」の依頼で時の実質的な最高権力者、「内管領」の平頼綱の正室のもとへ行き、その人が東二条院から贈られた「五衣」の調製の仕方を知らないということで指導してあげ、ついでに将軍御所内の「常の御所」の「御しつらい」についても指導してあげます。
また、平頼綱の息子の「飯沼の新左衛門」と「度々寄り合ひて、連歌、歌など詠みて遊び侍」ったりしていたのだそうです。
他方、後深草院二条の音楽の才能については、琵琶血脈等の客観的な史料の裏づけはありませんが、少なくとも本人は琵琶の腕前を繰り返し自慢しています。

『とはずがたり』に描かれた「後嵯峨院五十賀試楽」と「白河殿くわいそ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d624c6d4c245b64874dcb63f05afd55c
白河殿「山上御所」と四条隆親
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5e8f269f9ecb348798cbcd019aa22ed
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その3)─「隆親の女の今参り」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その6)─醍醐の真願房
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e60ac8d996034d4f856ce01740b32b8f
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その9)─近衛大殿
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f71f109655ed3559cb528b1ffc346a00

『とはずがたり』がどこまで事実を語っているかについて、私は全般的にかなり懐疑的ですが、そんな私でも後深草院二条が鎌倉で武家社会の最高レベルの人々と交流していたことは事実だろうと思っています。
そして後深草院二条の音楽的才能も、後嵯峨院から褒美をもらったのは後深草院二条だけではないなどの点で若干の水増しはあるにしても、基本的には事実だろうと思います。
とすると、「白拍子三条」は後深草院二条の「隠れ名」であり、後鳥羽院が自作の和歌を「女房」の名前で記したように、後深草院二条も自己の出自を隠すために、あるいは一種の洒落・ユーモアとして「白拍子三条」を用いたと考えるのが最も素直だと私は考えます。
すなわち、後深草院二条は金沢北条氏と密接な交流があり、早歌の興隆に多大な刺激を与えたであろうことは確実だと私は考えます。
そして、更に後深草院二条は若き日の金沢貞顕(1278-1333)とも面識があり、貞顕作詞の「袖余波」は二条の指導の成果、二条の袖の余波ではなかろうか、と想像します。

>筆綾丸さん
>早熟な金沢貞顕

三角洋一氏校注の「岩波新日本古典文学大系50」には『とはずがたり』と『たまきはる』が収録されていて、後者の末尾に「乾元二季二月廿九日、書写校合畢。此草子者、建春門院中納言書之。俊成卿女云々。 貞顕」とあります。
『とはずがたり』と『たまきはる』は時代も離れていて、両者が一緒になっているのは単なる編集上の都合ですが、『たまきはる』の良本が現代に伝わるのは、書写の前年、乾元元年(1302)六月に六波羅探題南方として上洛していた金沢貞顕のおかげです。
まあ、武家社会だけしか見ない研究者にとっては、六波羅探題もけっこうヒマだったのだな、程度の感想しか浮かばないかもしれませんが、ある程度古典に詳しい人にとっても、『たまきはる』のようなマイナーな、通好みの作品を貞顕が書写しているのは、ちょっと意外ではなかろうかと思います。
ただ、若い時期から貞顕が源氏に親しんでいたとすると、この程度の書写は貞顕にとっては簡単な話だったのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

狭筵やつれなく見えし在明に 月を片敷くアンドロギュノス 2018/02/28(水) 11:01:39
小太郎さん
早熟な金沢貞顕については、国文学と歴史学に通じた、謂わば両性具有的な小川剛生氏の見解を聞いてみたいですね。(紛らわしい言い方ですが、これは褒め言葉です)

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さてもこのつれなく見えし在明に や<助音> きぬぎぬの袖の名残
  忘る間なきは 暁思ふ鳥の空音
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ほとんど近松の浄瑠璃を聴いているような塩梅ですね。復元は無理でしょうが、「や<助音>」の発声はどのようなものだったのか、いろいろと想像させるものがあります。

http://www.geocities.jp/keisukes18/sinkokin42.html
「きぬぎぬの袖」で思い出すのは定家の歌で、「月をかたしく(片敷く)」というシュールな表現はいいですね。

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫
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