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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その5)

2020-11-01 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 1日(日)11時03分52秒

続きです。
キンキラキンのド派手な恰好をした大手の大将・名越高家に魔の手が忍び寄ります。(p45以下)

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 ここに、赤松が一族、佐用左衛門三郎範家とて、強弓〔つよゆみ〕の矢次早〔やつぎばや〕、野戦〔のいくさ〕に心ききて、卓宣公〔たくせんこう〕が秘せし所をわが物に得たる兵あり。わざと物具を脱いで、徒立〔かちだて〕の射手〔いて〕になり、畔〔くろ〕を伝ひ、藪を潜つて、とある畔の影に添ひ伏して、大将に近づいて一矢〔ひとや〕ねらはんとぞ待つたりける。尾張守は、三方の敵を追ひまくつて、鬼丸に付いたる血を笠符にて押し拭〔のご〕ひ、扇子を開き仕〔つか〕うて、思ふ事もなげにてひかへたる処を、範家、近々とねらひ寄つて、よつ引きつめてひやうど射る。その矢、矢坪を違〔たが〕へず、尾張守が甲〔かぶと〕の真向〔まっこう〕のはづれ、眉間のただ中に当たつて、脳〔なずき〕砕き骨を分け、胛〔かいがね〕のはずれへ矢さき白く射出だしたりける間、さしもの猛将たりと云へども、この矢一筋に弱りて、馬より真倒〔まっさかさま〕にどうど落つ。範家、胡箙〔えびら〕を叩いて矢叫びをし、「寄手の大将名越尾張守をば、範家がただ一矢〔ひとや〕に射落としたる。続けや人々」と呼ばはりければ、引き色に見えつる官軍、これに機を直し、三方より勝時〔かつどき〕を作つて攻〔つ〕め合はす。
 尾張守の郎従七千余騎、しどろになつて引きけるが、或いは大将を討たせていづくへ帰るべきとて、引つ返して討死する者もあり、或いは深田〔ふけだ〕に馬を乗り込うで、叶はずして自害する者もあり。されば、狐川より鳥羽の今在家〔いまざいけ〕の辺まで、その道五十余町が間には、死人の臥さぬ尺地〔せきち〕もなし。
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ということで、四月二十七日に京を出発した名越高家は、その日のうちに久我縄手であっさり戦死してしまいます。
眉間の真ん中に矢が当たって、脳が砕かれ、肩甲骨の端に矢先が白く出るというのは不気味なほどリアルですね。
押され気味の戦局を一瞬で逆転させた弓の名手・佐用範家の説明に「野戦に心ききて、卓宣公が秘せし所をわが物に得たる兵」とありますが、脚注によれば「卓宣公」は「未詳。中国の兵法家か」(p46)とのことで、当時の武家社会では常識であったであろう知識も、後世に伝わっていないものが意外にあるのですね。
また、細かな話になりますが、「野戦」は神田本・流布本では「野伏戦」となっているそうです。
高橋典幸氏(東京大学准教授)の「太平記にみる内乱期の合戦」(市沢哲編『太平記を読む』所収、吉川弘文館、2008)という論文に、この場面の分析があったはずだなと思って確認してみたところ、高橋氏は『太平記』の巻九「山崎攻事付久我畷合戦事」を引用して「野伏戦」について論じており(p93)、流布本を用いておられるようですね。
ま、それはともかく、以上で第三節が終わって、第四節「足利殿大江山を打ち越ゆる事」に入ります。
やっと名越高家の戦死となったところで、尊氏はどのように動くのか。
尊氏が名越高家討死を知って「降参」したとする『難太平記』の記述を裏付けるような「原太平記」の痕跡はあるのでしょうか。(p47)

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 大手の合戦は、今朝〔こんちょう〕辰刻より始まつて、馬煙〔うまけぶり〕東西に靡き、時の声天地を響かしけれども、搦手〔からめて〕の大将足利殿は、桂川の西の端〔はた〕に下〔お〕り居て酒盛〔さかもり〕しておはしける。かくて数刻〔すこく〕を経て後、「大手の合戦に寄手打ち負けて、大将すでに討たれ給ひぬ」と告げたりければ、足利殿、「さらば、いざや山を越えん」とて、おのおの馬に打ち載つて、山崎の方をば遥かの他所〔よそ〕に見捨てて、丹波路〔たんばじ〕を西へ、篠村〔しのむら〕へとぞ馬を早められける。
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ということで、尊氏は大手の合戦をよそに桂川の西でのんびり酒盛りをしていて、数刻後に名越高家の討死を聞きます。
しかし、尊氏は大手の救援に行くどころか、それでは山越えするか、ということで「山崎の方をば遥かの他所に見捨てて」、大江山を越えて丹波の篠村に行ってしまいます。
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