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「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その2)

2018-02-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月26日(月)17時02分30秒

出家前の兼好について、小川氏は前投稿で引用した部分に続けて、

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 兼好の生年は確定できないものの、江戸時代以来行なわれてきた弘安六年(一二八三)誕生説はおよそ正しいといわれている。嘉元三年は二十三歳、延慶元年に二十六歳となる。不自然ではなく、当面この説に従ってよいであろう。
 嘉元三年、兼好は既に元服はしていたものの、任官せず、仮名「四郎太郎」で呼ばれ、必要な場合のみ実名「卜部兼好」を用いたことになる。貞顕との関係では、広義ではその被官といえ、「四郎太郎」の仮名も侍の出自を思わせるが、三十近くなっても、他の被官のように任官しなかったのは、亡き父もまたそのような曖昧な身分であったからではないか。
 想像を逞しくすれば、幼いうちに父を失い、母に連れられて京都に上り、そこで成長したが、ゆかりの関東に下向し、姉の庇護の下、無為の生活を送っていた若者の姿が思い浮かぶ。もちろん十分な経済的余裕が前提である。
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と書かれています。(p54以下)
小川氏自身の記述によれば父親が亡くなったのは正安元年(1299)ですから兼好は推定十七歳で、「幼いうちに」という表現にはかなり違和感があります。
ま、それはともかく、後深草院二条は正嘉二年(1258)生まれなので兼好より二十五歳程年上ですが、この二人は共に京と関東を往還し、公家文化を武家側に提供する異文化間のブローカー的な存在である点で共通です。
もちろん後深草院二条の方が社会的には圧倒的に上層であり、後深草院二条にとって兼好など歯牙にもかけない存在だったでしょうが、兼好にとってはどうだったのか。
実は「早歌」という武家社会で流行した芸能に着目すると、兼好と同様に後深草院二条も金沢北条家と接点を持っていた可能性が出てきます。
早歌を芸能として確立したのは寛元三年(1245)頃の生まれと推定されている明空という人物なのですが、明空を庇護したのが金沢貞顕の同母兄の甘縄顕実です。
そして外村久江氏は「袖余波」「明王徳」という作品の作詞者「越州左親衛」を金沢貞顕に比定されています。(『鎌倉文化の研究─早歌創造をめぐって─』、三弥井書店、1996、p296)

金沢貞顕(1278-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95
甘縄顕実(1273-1327)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%A1%95%E5%AE%9F

また、外村氏は初期の早歌の重要な作者として「白拍子三条」という人物に着目されています。
『鎌倉文化の研究』「第一篇 鎌倉幕府下の文芸・教養」の「第十六章 源氏物語の芸能化」から引用してみます。(p243以下、初出は『桜蔭会会報』99号、昭和53年5月)

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 二 源氏物語の歌謡化、早歌の創始

 今様・白拍子・延年などの芸能化の傾向を集大成するような長大歌謡が鎌倉の武士の社会を中心に歌われるようになってきた。それが早歌である。「そうか」または「そうが」と呼ばれ、既存の歌謡より、テンポの早い歌謡で、歌詞を文学用語で宴曲と呼んでいる。はじめの百曲は鎌倉末期正安三年(一三〇一)に集められ、続いて次々と集められて、現在百七十三曲がのこっている。源氏物語の引用は二百箇所にのぼっていて、このことだけでもこの物語との関係の深さを知ることが出来るが、引用のみではなくて、「源氏恋」・「源氏」と題する曲が早くから歌われていた。作詞・作曲・撰集に大活躍の明空が書きのこした撰要目録序にはこの作者について、

  ……もしほ草かきあつめたる中にも、女のしわざなればとてもらさむも、いにしへの
  紫式部が筆の跡、おろかにするにもにたれば、かるかやのうちみだれたるさまの、
  おかしく捨がたくて、なまじゐに光源氏の名をけがし、二首の歌をつらぬ。……

と記し、目録にも或女房と書きのこしている。この序文には早歌の創始期に活躍した人のなかから六人をとり挙げて、六歌仙になぞらえているが、その一人に源氏物語を主題とした歌謡の作者或女房をわざわざ記しているのはみのがすことは出来ない。この或女房は室町期の書き入れと思われる朱書きに白拍子三条と号したとある。他の五人が、洞院公守・花山院家教らの摂関家の人や藤原広範のような文章博士、冷泉為相・為通の和歌の専門家といった人々であることを思うと、単に六歌仙のためにとりあげたとばかりはいえないのである。
 「源氏」は若菜下の六条院の女楽を紹介して、批評を加えたもので、

  藻塩草書集めたる其中に 紫式部が筆の跡 おろそかなるはなしやな
  六条の院の女楽 伝て聞も面白や

と歌い出されて、歌謡の口調にふさわしくアレンジはしているが、源氏物語の本文に忠実にそったものである。「源氏恋」の方はより進んだ仕方で、源氏物語から四つの恋を、即ち、藤壺と源氏・朧月夜と源氏・女三宮と柏木・浮舟と匂宮とを歌っているが、

  好〔よし〕とても善〔よき〕名もたたず 苅萱のやいざみだれなん……

とはじめられ、第三者の介在する複雑な恋をとりあつかい、また、原作にない批評もはさまれていて、「源氏」曲よりは内容的にも一層こなされている。
 こういう原典のふまえ方の二つの型を鮮やかに示している点は創始期の早歌にとって、祖型の役割を果しているかに見える。
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「洞院公守・花山院家教らの摂関家の人」は外村氏のケアレスミスで、正しくは「清華家」ですね。

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