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「貞顕は、生まれながらの嫡子ではなかったのである」(by 永井晋氏)

2021-02-24 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月24日(水)12時25分31秒

『足利氏と関東』についての他の不満に比べるとそれほどの不満でもないのですが、清水克行氏が「妾腹の二男坊」という表現を繰り返す点も、私にとってはプチ不満です。
リンク先の2014年6月18日付産経新聞記事は清水説を素直に要約したものになっていますが、タイトルがすごいですね。

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【夫婦の日本史】足利尊氏、政権取った「妾腹の次男坊」

 足利尊氏は、実に謎の多い人物である。後醍醐天皇の呼びかけに応じて鎌倉幕府を倒したものの、のちには天皇に背き、室町幕府を開いた。強気と弱気が交錯し、躁鬱気質の診断を下す歴史家もいるほどだ。
 だが最新の研究では、彼の言動を複雑なものにした最大の要因は、その出自と若き日の結婚問題にあったとする見方が提示されている。
【中略】
 「青年時代の尊氏については分からないことが多かった。若いころ苦悩の日々を送ったことが、のちに“武門の棟梁”と仰がれる、彼の器量の大きさと、行動の不可解さにつながったともいえるのではないか」
 関東の中世史に詳しい清水克行・明治大教授は話す。
 その後の尊氏と登子が、どのような夫婦生活を送ったかは、不思議なほどに伝わらない。しかし、登子は尊氏と死別後も京都で一門の中心にあり、孫の義満の成長を見届けて亡くなった。実家や北条一門を滅亡に追いやった夫のことを、どのようにみていたのだろうか。


「その後の尊氏と登子が、どのような夫婦生活を送ったかは、不思議なほどに伝わらない」とありますが、登子は暦応三年(1340)に二男の基氏を生んだりしていますから、「実家や北条一門を滅亡に追いやった夫」とそれなりに仲良く暮らしていたのでしょうね。
ま、それはともかく、鎌倉時代の「特権的支配層」(細川重男氏の用語)の中でも、嫡子の地位は別に血統で全てが決まる訳ではなくて、候補者の資質・才能も重要な判断材料ですね。
一番重要なのは「家」の存続ですから、たとえ正室の生んだ長男であっても、頭がそれほど良くなかったり体が虚弱だったりすれば、嫡子からはずれることは普通にあったはずです。
私もそうした事例を網羅的に挙げるほどの知識はありませんが、例えば高義の母である釈迦堂殿が後ろ盾にしたであろう異母兄(または弟)の金沢貞顕も、決して血統だけで嫡子になった人ではありません。
永井晋氏の『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)によれば、

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 金沢貞顕は、弘安元年(一二七八)に北条顕時と摂津国御家人遠藤為俊の娘(入殿〔いりどの〕)との間に誕生した(「遠藤系図」)。顕時は三十一歳、実時の嫡子として順調に昇進し、鎌倉幕府の評定衆を勤めていた。母方の遠藤氏は、摂津国と河内国にまたがる大江御厨を本領とした一族である。大江御厨には良港として知られた渡辺津(大阪府大阪市東区)があった。渡辺は「国衙の大渡」の辺りを意味すると考えられている(『新修大阪市史』)。遠藤氏は、この湊を管理する渡辺惣官を勤めていた。また、摂関家とのつながりも深く、為俊は摂家将軍九条頼経の時代に鎌倉に下り、幕府の奉行人を勤めた。金沢氏と遠藤氏とのつながりは、為俊が鎌倉に下向した後に生まれたものであろう。貞顕の同母兄弟には文永十年(一二七三)に誕生した兄甘縄顕実、生年未詳の兄式部大夫時雄(生年不詳~一三〇四)がいた。
【中略】
 北条顕時の正室は安達泰盛の娘で、顕時と正室との間には足利貞氏の正室となった女子(釈迦堂殿、生年不詳~一三三八)が知られるのみである。顕時の長子は、文永六年(一二六九)に誕生した顕弁である。顕弁の母は『金文』一四号に「弁公母儀」と見えるが、出自は明らかでない。他にも母未詳の兄左近大夫将監顕景(生年不詳~一三一七)、正宗寺本の北条系図にみえる式部大夫顕雄がいた。ただ、顕雄の名は正宗寺本にのみ見えるので、貞顕の周辺で式部大夫殿(唐名は李部)という場合は同母兄弟の時雄を指すと考えてよいだろう。
 北条顕時追善供養のために起草された諷誦文は、貞顕が三人の兄を超越して家督をついだと記している。貞顕は越後六郎を通称としたことから、五人の兄がいた可能性がある。現在確認されている貞顕の兄のうち、僧籍にあった顕弁を除く顕実・時雄・顕景の三人が超越の対象になったと考えてよいであろう。貞顕は、生まれながらの嫡子ではなかったのである。
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とのことで(p4以下)、「摂家将軍九条頼経の時代に鎌倉に下り、幕府の奉行人を勤めた」という遠藤為俊の経歴は上杉家の祖・重房と似ていますね。
北条顕時の場合は正室に男子が生まれなかったという点で足利貞氏とは事情が異なりますが、遠藤為俊女を母とする同母兄弟の中では貞顕より五歳も上の顕実が嫡子とならず、「貞顕が三人の兄を超越して家督をつい」でいます。
この点、永井氏は、

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 この時代の家督の選び方には、長幼の順を重んじた理運と、当人の才能を重んじた器量がある。貞顕が甘縄顕実・式部大夫時雄・左近将監顕景の三人の兄を超えて家督を嗣いだと意識する以上、器量によって選ばれたと考えてよいであろう。
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とされていますが(p17)、五歳上の同母兄・甘縄顕実も決して無能な人ではなく、貞顕ほどではないにしても幕府でそれなりの役職に就任しています。
また、文化面でも早歌の隆盛に大いに貢献しているような人物です。
こうした兄を「超越」したということは、貞顕の「器量」がよっぽど優れていたことを示していますね。
とすると、足利家において尊氏の「器量」はどのように評価されたのか。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その2)
「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その5)

>筆綾丸さん
>森田公一とトップギャラン『青春時代』(1973)
ずいぶん懐かしい名前です。
ユーチューブで久しぶりに聞いてみましたが、ちょっと気恥しくなるような歌詞ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
2021/02/23(火) 14:44:58
「青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり(阿久悠)」
小太郎さん
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/seishun.html
青春といえば、漱石の『三四郎』や鷗外の『青年』はともかくとして、森田公一とトップギャラン『青春時代』(1973)とともに、萩尾望都の名作『トーマの心臓』(1974)を思い出します。
そして、春に関連して言えば、以前、直義と師直の「直」には、フロイトのheimlich(親密な)≒umheimlich(不気味な)のようなものがあると述べましたが、直冬と師冬の「冬」にも同じようなものがあり、なぜ、かくも諱の一字を同じうするのか、と昔から疑問に思っています。
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