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「八方美人で投げ出し屋」考(その7)

2021-02-23 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月23日(火)12時40分0秒

「薄明のなかの青春」の一番の問題は、清水氏が近代的・現代的な家族観・結婚観・「青春」観で中世人を見ている点ですね。
例えば「青春」は明らかに近代的な概念です。
少し検索してみたところ、依岡隆児氏(徳島大学教授、比較文学)に「旧制高校からみた「青春」概念の形成」という論文があり、

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 本稿は、旧制高校が日本の近代化において「青春」概念を定着させる役割をはたしたことを、ドイツとの関係を中心に明らかにすることを目的としている。着眼点は、青春があって旧制高校でそれが広まったというよりも、むしろ旧制高校ができて、それに合わせて青春が加工・形成されたとみる点にある。
【中略】
 ここではこうした旧制高校を、近代以前の日本にはなかったとされる「青春」を容れる「器」とみなし、日本の近代において「青春」がいかに形作られていったか、そしてそれがいかにドイツからの影響を受けていたかを明らかにする。
 ドイツとの関わりを中心にしたのは、青春の概念が旧制高校で根付くのは、大正から昭和にかけてと考えられるが、それには当時入ってきたドイツ文化の影響が大きかったからだ。ドイツの教育制度などを参考にし、外国語、特にドイツ語が重視されたばかりではなく、教養主義や青春小説が流行し、ドイツ人講師たちと「学生」(旧制高校生は「生徒」ではなく「学生」と呼ばれた)たちとの全人的交流が展開された。こうした旧制高校的なドイツ文化受容が日本の「青春」の概念化にある種の傾向をもたらしたと考えられる。そこでここでは、旧制高校において人気だったドイツの小説・戯曲に注目した。

https://repo.lib.tokushima-u.ac.jp/ja/113610

といった議論が展開されています。
もちろん中世武家社会にも知識と経験に乏しい若い世代は存在しますが、そうした存在に相応しい表現としては、例えば「若武者」があります。
京都から船上山に向かって進軍した当日に久我縄手であっさり殺されてしまった名越高家などは「若武者」の代表格ですね。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/415a9f71066ce2245de4749fd995e5ae
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e87381cb1d9254070905e3a1d3e5fe82

「青春」という表現を使えば、「多感な年頃」「中途半端」「人格形成」「先行きは不透明」といった名詞や修飾語も直ちに動員され、最終的には「婚姻前不安〔マリッジブルー〕」にまで行き着きます。
近代的な学校教育の下での「青春」を経て形成された清水氏自身の「人格」や価値観が、清水氏が描くところの尊氏の人間像に流れ込んでしまっているような感じですね。
もちろん、同じ人間なのだから、喜怒哀楽、いずれについても現代人が中世人と共有できる点はありますが、しかし歴史研究者としては、彼らが現代人とは全く異なる価値観を持った存在かもしれない、という緊張感を失ってはいけないと思います。
特に家族観・結婚観はおよそ現代人とはかけ離れていて、一夫多妻制や妻妾同居など、イスラム社会はともかく、普通の現代日本人にはなかなか想像しにくい事態ですね。
更に尊氏の場合、妻の赤橋登子の家族・一族を皆殺しにした人で、現代であれば単なる殺人鬼・サイコパスです。
また、赤橋登子だって、そんな夫と離縁せず、義詮(1330生)を生んだ十年後に基氏を生んだりしている訳ですから、現代的な夫婦の感覚では相当に気持ち悪い存在で、こちらも尊氏同様にサイコパスですね。
ま、多くの歴史研究者は、彼らがおよそ現代的な家族観・夫婦観で扱えるような対象ではないことを了解していますから、二人をサイコパス夫婦などとは考えませんが、清水氏の発想を突き詰めていったら、次の世代の歴史研究者からは真面目にそんなことを言い出す人が出てきそうです。
さて、私の清水説批判の弱点としては、清水氏が強調される仮名の問題、そして父・貞氏が若年の高義には当主の座を譲ったのに尊氏にはそうしなかった、という問題が残ります。
前者については、高義の遺児を擁する釈迦堂殿、そしてその背後に控えていたであろう釈迦堂殿の異母兄(または弟)の金沢貞顕への配慮で一応の説明はできそうですが、貞氏の方は健康状態との関係が不明なので、なかなか分かりにくいところです。
ただ、討幕を決意して以降の尊氏は足利家をきちんと統率しているように見えるので、正式には当主ではなかったとしても、実質的には相当前から家政を掌握していたと考えてよいのではないかと思います。
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