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「尊氏が庶子の直冬を嫌っていたと書かれているのは、『太平記』だけなのです」(by 亀田俊和氏)

2021-02-21 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月21日(日)10時45分36秒

昨日は珍しく投稿を休んでしまいましたが、これは亀田俊和氏の「新説5 観応の擾乱の主要因は足利直冬の処遇問題だった」(『新説の日本史』所収、SB新書、2021)を読んで、直冬について考え直さなければいけないな、と思ったからです。

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『新説の日本史』
第2章 中世 亀田俊和
 新説4 承久の乱の目的は鎌倉幕府の打倒だったのか
 新説5 観応の擾乱の主要因は足利直冬の処遇問題だった
 新説6 応仁の乱の主な原因は将軍の後継者争いではなかった

https://www.sbcr.jp/product/4815609054/

亀田氏は「直冬をどのように処遇するのかについて、直義の方針に高師直が異を唱えたことが、観応の擾乱の直接的な契機になったと、私は考えています」(p80)とされた上で、次のように書かれています。(p88)

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 従来、尊氏は直冬のことを、実子であるにもかかわらず異常なほど嫌っていたと考えられてきました。私もかつてはその通説を信じていて、尊氏は、「義詮と直冬を東西に配して全国統治をするという直義のプラン」に反対だったと考えていました。
 しかし、現在では考えを改めています。尊氏は直冬を嫌ってはいませんし、このプランにも反対していないのです。
 実際、尊氏が庶子の直冬を嫌っていたと書かれているのは、『太平記』だけなのです。もちろん、観応の擾乱では敵対関係になるわけですが、少なくとも尊氏と直義が対立関係になる前は、尊氏が直冬を嫌っていたという確かな証拠はありません。むしろ義詮と直冬がほぼ同じ官位を得ていたことからも、尊氏がこの二人を同等に扱っていたのは間違いないと思います。
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『観応の擾乱』(中公新書、2017)とは全然違うではないか、と思って同書を確認すると、

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 河内国四条畷の戦いが高師直の圧勝で終わった後、紀伊国で南朝軍が蜂起した。直義は、養子直冬を紀伊に遠征させ、反乱を鎮圧させることにした。直冬の初陣である。
【中略】
 直冬は、養父直義の期待に見事に応えた。しかし、実父尊氏はまったく喜ばなかった。ようやく渋々認知して尊氏邸への出仕は許したが、その扱いは仁木・細川といった家臣並みだった。
 また執事高師直も主君である将軍尊氏に同調して、直冬を冷遇したらしい。後述するように、師直は義詮を尊氏の後継者とすることに晩年の政治生命をかけていた気配がある。観応の擾乱の主原因の一つである、直冬の問題がここに醸成されたのである。
 尊氏が実子直冬をここまで嫌った理由については、尊氏の正妻赤橋登子が直冬を忌み嫌ったなどの諸説があるが、史料的に裏づけることはできない。ともかく生理的に嫌っていたことは確かであるようだ。
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とあるので(p39以下)、尊氏が直冬を嫌っていなかったというのは亀田氏自身にとってもつい最近の「新説」という訳ですね。
「生理的に嫌っていたことは確か」からの急転直下の改説なので、正直、ちょっとびっくりしたのですが、この「新説」が正しいとすると、高師直は尊氏も同意していた「義詮と直冬を東西に配して全国統治をするという直義のプラン」を破壊した訳ですから、尊氏の怒りを買うのは当然です。
また、後に摂津打出浜の戦いに敗れた師直・師泰兄弟に対して尊氏が極めて冷酷で、「上杉修理亮」(能憲または重季)による高一族の惨殺を事実上黙認したことも、もともとお前らが起こしたトラブルではないか、といった気持ちの現れと考えることができそうです。
ということで、この「新説」に従うと、今までうまくピースが嵌らないように思えていたジグソーパズルがけっこう綺麗に仕上がるような感じがするので、おそらく正しいのでしょうが、もう少し考えてみたいと思います。
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