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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その53)─「時房が義時追討を命じられているということになれば」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「胤義と秀康の会話が、軍記物の創作であることはいうまでもない」(p128)、「胤義の発言は物語の創作であるから、その真偽が問題なのではない」(p129)、「『承久記』の創作に関わった京都周辺の知識人層」(同)という具合に、慈光寺本の「創作」性を強調されるようになった高橋氏は、慈光寺本における「信憑性の高い記事」と「編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述」をどのような基準で判定されるのか。
例えば高橋氏は「参集を命じる廻文には、在京する検非違使、北面・西面の武士の名が記され、播磨国・伊予国から三河国に及ぶ諸国の武将たち一千騎も召された」(p129)とされますが、この「廻文ニ入輩」と「諸国ニ被召輩」の人名リストも慈光寺本にしか存在しない記事です。
高橋氏は当該記事を「信憑性の高い記事」と判断された訳ですが、しかし、「諸国ニ被召輩」の末尾には「近江国ニハ佐々木党・少輔入道親広ヲ始トシテ、一千余騎」とあって、伊賀光季と並ぶ京都守護、大江親広が「佐々木党」と並ぶ近江国の住人となっています。
高橋氏はこの部分を含めて「信憑性の高い記事」と判断されたのか。
ちなみに大江親広の存在感が極めて希薄であることは慈光寺本の謎の一つで、慈光寺本において親広の登場場面は実に「諸国ニ被召輩」の一箇所だけであり、藤原秀康による第一次軍勢手分や藤原秀澄による第二次軍勢手分にも名前はなく、近江関寺からの逃亡も記されず、戦後処理にも一切登場しません。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その17)─「廻文」と「諸国ニ被召輩」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85115aad12fb5061d7af9f55e5f2fe7f
(その18)─大江親広の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55631e5f49bc5c20cfdc0355c7f41c75
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その15)─慈光寺本における大江親広
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4d074844ec821a5a8232f92aff9eaf8

ま、それはともかく、続きです。(p130)

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 五月十五日、義時の縁者である伊賀判官藤原光季宅を胤義ら上皇方の討手が襲い、光季は奮戦したものの自害した。また、幕府と結びつきの深い藤原(西園寺)公経・実氏父子が拘禁された。この日の夜、光季の下人が報告のために鎌倉に下り、胤義も秀康への返答通り兄義村に宛てた手紙を送った。また、後鳥羽上皇も義時追討に院宣を下した。上皇が宛先として指名したのは、古活字本によると、武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西である。他の本には若干の異同があり、慈光寺本には、武田・小笠原、小山朝政・宇都宮頼綱・中間五郎・足利義氏・北条時房・三浦義村と記されている。注目されるのは、慈光寺本に義時の弟時房の名があることだろう。時房が義時追討を命じられているということになれば、上皇の狙いが幕府や北条氏の打倒ではなく、義時ただひとりの排除だったことを明確に示していることになる。
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いったん、ここで切ります。
「胤義も秀康への返答通り兄義村に宛てた手紙を送った」とありますが、流布本でも胤義は、

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中にも兄にて候三浦の駿河守、きはめて鳴呼〔をこ〕の者にて候へば、『日本国の惣追捕使にも被成ん』と仰候はゞ、よも辞申候はじ。さ候ば、胤義も内々申遣し候はん。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ab28fe2da880962508ac1cc20f951306

と約束しているので、ここは慈光寺本に偏した記述ではありません。
その後、「後鳥羽上皇も義時追討に院宣を下した」として、慈光寺本と流布本の異同を書かれていますが、「時房が義時追討を命じられているということになれば」云々との表現は微妙で、『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)とは若干ニュアンスが異なっていますね。
いずれにせよ、時房の名前があることで、何故に「上皇の狙いが幕府や北条氏の打倒ではなく、義時ただひとりの排除だったことを明確に示していることになる」のかは私には理解できません。
仮に「時房が義時追討を命じられている」としても、それは単に北条氏内部の分裂を狙ったというだけの話ではなかろうかと私は考えます。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

なお、「慈光寺本には、武田・小笠原、小山朝政・宇都宮頼綱・中間五郎・足利義氏・北条時房・三浦義村と記されている」とありますが、原文でも「武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、此等両三人ガ許ヘハ賺〔すかし〕遣ベシトゾ仰下サル」とあって、何故か武田・小笠原だけ姓だけですね。
まあ、八人並べておいて「此等両三人」と書いてあることに比べればたいした話ではありませんが。
また、「中間五郎」は普通は長沼宗政とされていますが、高橋氏には何かこだわりがあるようですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その25)─「十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bff55e756146f37e86ea769222736e3

さて、続きです。(p130以下)

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 上皇の使者押松丸、光季・胤義の下人は、いずれも十九日に鎌倉に到着した。義村邸にやってきた弟の使者をみつけた義村は、手紙を受け取り開きみて、関所での検問が厳しいから返事は書かない、いってきたことはわかったとだけ伝えよと、使者を帰した。
 義村はすぐに義時邸を訪れ、胤義の手紙をみせた。若いころから「互いに心変わりしない」との約束の通りの行動であった。鎌倉の御家人が院宣をみたならば、義村と義時が敵対していると思わない者はいないだろうから、広まる前に鎌倉に潜伏した使者を捕らえようと義村は提案し、義時は人を遣わして使者を捕らえた(慈光寺本『承久記』)。
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承久の乱の勃発を知らせる京都からの使者は、流布本では「院宣の御師」の「推松」と「平九郎判官」の「私の使」の二人だけ、慈光寺本では「伊賀判官下人」・「院御下部押松」・「平判官ノ下人」の三人ですが、『吾妻鏡』では、承久三年五月十九日条の登場順に

(1)「大夫尉光季」の「飛脚」
(2)「右大將家司主税頭長衡」の「飛脚」
(3)「関東分宣旨御使」の「押松丸<秀康所従云々>」
(4)「廷尉胤義<義村弟>」の「私書状」持参者

の四人です。

使者到来と幕府軍発向までの流布本・慈光寺本・『吾妻鏡』の比較(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b88580e2675d2e9400634c1adb8adb21

高橋氏が何故に慈光寺本を採られるのか、理由は分かりませんが、改めて慈光寺本を読み直してみると、和田合戦に関する記述が気になってきます。
この点は次の投稿で書きます。
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