続きです。(p56以下)
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一院、弥〔いよいよ〕不安〔やすからず〕思召ければ、関東を可被亡由定めて、国々の兵〔つはもの〕共、事によせて被召ける。関東に志深き輩も力不及、召に随ひて伺候しけり。其比、関東の武士下総前司守縄も伺候してけり。平九郎判官胤義、大番の次〔つい〕で在京して候ければ、院、此由被聞召て、能登守秀安を被召て、「抑〔そもそも〕胤義は関東伺候の身として、久〔ひさしく〕在京するは何事ぞ。若〔もし〕存ずる旨あるか。尋きけ」と被仰ければ、秀安承て、雨ふり閑〔しづか〕なる夜、平九郎判官胤義を招寄て、門指固〔さしかため〕て、外人をば不寄、向ひ居て酒宴し遊けり、夜更〔ふけ〕て後、秀安申けるは、「関東御奉公の御身にて、御在京は如何なる御所存にて候やらん。内々尋承り候へと御気色にて候」。胤義、「別〔べち〕の儀不候。当時、胤義が相具して候者(は)、故大将殿の切者〔きりもの〕、意法坊生観が娘にて候。故左衛門督殿に被思参せて、男子一人まうけ奉りしを、権大夫に無故被失て、『憂き者に朝夕姿を見する事よ』と、余に泣嘆候間、さて力不及、角〔かく〕て候なり」と申。秀安、「地体〔ぢたい〕義時は、院中の御気色よからぬ者にて候。如何にして義時打せ可給御計〔はかりこと〕は候べき」と申ければ、胤義、「一天の君の思召〔おぼしめし〕立せ給はんに、何条叶はぬ様の候はんぞ。日本国重代の侍共、仰を承りて、如何でか背き進〔まゐ〕らせ候べき。中にも兄にて候三浦の駿河守、きはめて鳴呼〔をこ〕の者にて候へば、『日本国の惣追捕使にも被成ん』と仰候はゞ、よも辞申候はじ。さ候ば、胤義も内々申遣し候はん」とて帰りにけり。秀安、賀陽院〔かやのゐん〕殿の御所に参りて、「胤義、角こそ申候つれ」と申ければ、一院、ゑつぼに入せ給て、胤義を召て御尋有。秀安が申つるに少も不違、同じ言葉に申ければ、今は角〔かく〕と被思召て、鳥羽の城南寺の流鏑馬汰〔そろ〕へと披露して、近国の兵共を被召けり。大和・山城・近江・丹波・美濃・尾張・伊賀・伊勢・摂津・河内・和泉・紀伊・丹後・但馬、十四箇国、是等の兵〔つはもの〕参りけり。内蔵権頭清範、承て著到を付。宗徒の兵一千七百人とぞ註したる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29c0c7bbf10b299d004770ef6c020b2a
慈光寺本では、藤原秀康と三浦胤義の密談に際して、胤義の空想的な義時追討計画が語られますが、流布本にはそんな変な記述はありません。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8
続きです。(p57以下)
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一院、弥〔いよいよ〕御心武く成せ給て、「先〔まづ〕、巴〔ともゑ〕の大将を打ばや」と被仰ければ、公卿・殿上人閉口して物も不被申。徳大寺の大臣被申けるは、「大将うたれて候はゞ、思召立せ給ふ御大事軽く、若〔もし〕打れ候はずは御大事の重く成せ可給にて候。させる弓矢取者にても候はず。子細候はゞ、閑に御計ひ候へかしと(覚候)。大形〔おほかた〕、今度の御謀叛、於公継は、可然〔しかるべし〕とも不覚候〔おぼえさうらはず〕。其故は、故法皇の御時、木曽義仲、勅命を背て振舞けるを、頼朝に被仰付〔おほせつけらるれ〕ば、可被亡を、壱岐判官知康と申いくぢなしが勧めに付せ給ひて、院中に兵を被召、合戦候しかば、浅猿き事共出来りき。大形、日本国を蘆原の国と申は、葦の葉に似たる故にて候。其袋は東国に相当り、武士本より多くして、随へさせ給はん事不定の次第に候。御方の兵、千が一にも難及候。能々〔よくよく〕御思惟可有候はん」と被申ければ、一院、以外〔もつてのほか〕の御気色なりけれ共、後に定て思召被合けんとぞ覚し。巴の大将忽〔たちま〕ちに被失べかりしを、徳大寺の被申候によりて、思召被宥て、「さらば召籠よ」とて被召ける。大将、賀陽院殿へ被参ける(が)主税頭長衡を使にて、伊賀判官の許へ仰せられけるは、「賀陽院殿へ被召程に参候。城南寺の流鏑馬汰へと聞へしが、其儀無て、寺の大衆可被静とも聞ゆ。如何様にも世中穏かなるべし共不覚候。御辺〔ごへん〕、被召共無左右〔さうなく〕参り給ふべからず。子細を重て被仰候はんずらん」とて、賀陽院殿へ被参たれば、小舅の二位法印尊長、大将の直衣の袖を引て、馬場殿に奉押籠。子息の新中納言、同く被召籠ぬ。
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「巴の大将」とは西園寺公経(1171-1244)のことです。
後鳥羽は最初に親幕派の公経を殺そうと言い出したので、公卿・殿上人は驚きますが、後鳥羽が怖いので皆押し黙っていると、徳大寺公継(1175-1227)が、「巴の大将をお討ちになったら、御決意なさった討幕の大事も(個人的な感情と受け取られ)軽いものになってしまいます。討たれなければ(そのような誤解を招かず)大事が重いものと扱われるでしょう。巴の大将は別に弓矢を取るものではないのです。もし、どうしてもお討ちになりたい事情があるのであれば、公然とではなく、秘密にそうされるべきです。そもそも、今度の「御謀叛」、公継は納得はできかねます。何故なら、今は亡き後白河法皇の時代、木曽義仲が勅命に背いて振舞った際、頼朝にご命令になれば退治することができたのに、壱岐判官・平知康のような意気地なしの意見に従って御所に兵を召し、合戦となったために、御所が焼かれるような浅ましい事態となってしまいました。(今度もそのような事態になりかねません。)大体、日本国を「蘆原の国」と申すのは、葦の葉に似た形をしているからで、その袋(一番幅の広い部分?)は東国に当り、武士は非常に多く、ご命令に従わせられるかははっきりしません。お味方の兵を集めても、その数は敵の千に対して一にも及ばないでしょう。よくよくお考え直してください」と大胆な諫言をします。
この話は慈光寺本や前田家本には出てきませんが、仮に事実だとしても、公継が後鳥羽に対して「御謀叛」という表現を使ったはずはなく、これは流布本作者の思想的立場を示す表現ですね。
後鳥羽は立腹しますが、「後に定て思召被合けんとぞ覚し」(きっと後になって思い当たられたことでしょう)というのも、流布本作者の予想です。
結局、公経は殺されることはなく、高陽院(賀陽院)に参上すると、息子の実氏とともに二位法印尊長によって馬場殿に監禁されるだけで済みます。
また、後鳥羽の動向を怪しく感じた公経は、高陽院に行く前に家司の三善長衡を伊賀光季の許に派遣して、光季に警告をする訳ですね。
徳大寺公継(1175-1227)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B6%99
なお、慈光寺本では、伊賀光季追討に関する長大なエピソードの後、公経・実氏父子が監禁された事実だけが、
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去程ニ、右大将公経・子息中納言実氏召籠ラセサセ給フ。其謂〔そのいはれ〕ハ、関東ニ心カハス御疑トゾ承ル。朝〔あした〕ニ恩ヲ蒙、夕〔ゆふべ〕ニ死ヲ給ケン唐人ノ様也。
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という具合いに簡単に記されます。(岩波新大系、p323)
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