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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その52)─「史料批判の成果によって生み出された最新の三浦義村像」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
かつての高橋秀樹氏には慈光寺本が「最古態本」だから信頼できる、という野口実氏らと共通する発想が見られましたが、『人物叢書 三浦義村』では『承久記』の諸本を単調に並記して、この本にはこう書いてあり、あの本にはこう書いてある、という記述が目立ちますね。
高橋氏は「はしがき」で、

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 これまでの多くの研究が『吾妻鏡』の叙述をなぞってきたのに対して、最近の高橋の研究は、『吾妻鏡』を原史料や情報源のレベルまで掘り下げて史料批判し、信憑性の高い記事と、『吾妻鏡』編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述とを区別し、さらに公家日記や『愚管抄』などの情報と照合した上で、鎌倉時代の政治史を再構築する方法をとっている。
 この方法を用いた叙述には、しばしば史料批判や考証が必要になってしまうため、本書は既存の人物叢書よりも叙述がやや煩雑かもしれない。その点をお詫びしないといけないが、読者には、史料批判の成果によって生み出された最新の三浦義村像をぜひ確かめていただきたい。
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と書かれていて(p9)、実に立派な姿勢だと思いますが、『承久記』に関しては、「原史料や情報源のレベルまで掘り下げて史料批判し、信憑性の高い記事と、【諸本の】編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述とを区別」する姿勢があまり徹底していないように感じます。
ま、全然ない訳でもなさそうなので、具体的に見て行きたいと思います。
まず、『承久記』諸本に関する高橋氏の基本的認識ですが、「第六 義村の妻子と所領・邸宅・所職、関係文化財」に『承久記』に関する簡単な紹介があります。
即ち、

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・『承久記』
 承久の乱を描く軍記物。慈光寺本(水府明徳会彰考館所蔵)、前田本(前田育徳会尊経閣文庫所蔵)、古活字本(国立国会図書館ほか所蔵)、承久軍物語(国立公文書館所蔵)の四系統に大別されており、三浦胤義の話や義村と義時との関係は諸本によって描き方が異なっている。
 そのうち、もっとも成立が古いとされるのが慈光寺本で、新日本古典文学大系に収められている。同書には古活字本の翻刻も掲載されており、国史叢書『承久記』には四系統の諸本が収められている。
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とあって(p251以下)、「もっとも成立が古いとされるのが慈光寺本」との認識に変化はないようですね。
ただ、慈光寺本の諸本の成立時期と相互の関係については、例えば長村祥知氏の「承久の乱と歴史叙述」(松尾葦江編『軍記物語講座第一巻 武者の世が始まる』所収、花鳥社、2020)などで近時の学説の動向が紹介されており、そうした学説の動向に一切触れないのはいささか不親切ではなかろうかと思います。
例えば、「前田家本は、室町幕府を開創した足利氏の周辺で成立したという理解が有力」(長村、p216)で、十四世紀以降の成立であることは争えません。
また、「『承久軍物語』は随所に絵の指定があることから絵巻作成の草稿本と考えられて」(長村、p217)おり、既に「大正七年(一九一八)に、龍粛氏が、流布本『承久記』版本に『吾妻鏡』版本を増補して成立したことを解明」(同)していますから、これは慈光寺本などとは遥かに遅れて近世に成立したものです。
こうした成立年代の違いを無視して、

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胤義の発言は物語の創作であるから、その真偽が問題なのではない。『承久記』の創作に関わった京都周辺の知識人層に、義村、あるいは義村を含む東国武士に対して二通りの見方があったことが重要だろう。前田本の「はかりごとが人よりも優れている」という評価は、先に八〇頁で紹介した慈円『愚管抄』の義村評と重なる。
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と言われるのは如何なものか。
私は「原流布本」が慈光寺本に先行するとの特異な説を主張していますが、流布本は除いても、1230年代の成立である慈光寺本と、南北朝期以降の成立の前田本、そして近世に成立した『承久軍物語』を単調に並記するのは私には非常に奇妙に思われます。
そもそも前田本と『承久軍物語』は「京都周辺の知識人層」が「創作に関わった」と言えるのか。
少なくとも私は、そのように断定している学説の存在を知りません。
ま、成立時期と作者が「京都周辺の知識人層」と言えるかについては、高橋著をもう少し読み進めてから再度検討したいと思います。
ということで、続きです。(p129)

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 慈光寺本によれば、秀康は早速上皇にその旨を奏上し、四月八日に仏事の守護を名目とした軍議が開かれることになったという。参集を命じる廻文には、在京する検非違使、北面・西面の武士の名が記され、播磨国・伊予国から三河国に及ぶ諸国の武将たち一千騎も召された。
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「四月八日」とありますが、慈光寺本には、

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 去〔さ〕テ触催〔ふれもよほし〕ケル趣ハ、「来〔きたる〕四月廿八日城南寺ニシテ御仏事アルベシ。守護ノ為ニ甲冑ヲ着シテ参ラルベシ」トゾ催ケル。
 坊門新大納言<忠信>、按察中納言<光親>、佐々木野兵衛督<有雅>、中御門中納言<宗行>、一条宰相中将<信能>、高倉宰相中将<範茂>、直ニ勅定ヲ蒙ラレケリ。
 刑部僧正長厳、二位法印尊長等也。
 廻文〔めぐらしぶみ〕ニ入輩〔いるともがら〕、能登守秀康、石見前司、若狭前司、伊勢前司、安房守、下野守、下総守、隠岐守、山城守、駿河守太夫判官、後藤太夫判官、江太夫判官、三浦判官、河内判官、筑後判官、弥太郎判官、間野次郎左衛門尉、六郎右衛門尉、刑部左衛門尉、平内左衛門尉、医王左衛門尉、有石左衛門尉、斎藤左衛門尉、薩摩左衛門尉、安達源三左衛門尉、熊替左衛門尉、主馬左衛門尉、宮崎左衛門尉、藤太左衛門尉、筑後入道父子六騎、中務入道父子二騎。
 諸国ニ被召輩ハ、丹波国ニハ日置刑部丞・館六郎・城次郎・蘆田太郎・栗村左衛門尉。丹後国ニハ田野兵衛尉。但馬国ニハ朝倉八郎。播磨国ニハ草田右馬允。美濃国ニハ夜比兵衛尉・六郎左衛門・蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門尉・高桑・開田・懸桟・上田・打見・寺本。尾張国ニハ山田小次郎。三河国ニハ駿川入道・右馬助・真平滋左衛門尉。摂津国ニハ関左衛門尉・渡部翔左衛門尉。紀伊国ニハ田辺法印・田井兵衛尉。大和国ニハ宇多左衛門尉。伊勢国ニハ加藤左衛門尉。伊予国ニハ河野四郎入道。近江国ニハ佐々木党・少輔入道親広ヲ始トシテ、一千余騎。承久三年<辛巳>四月廿八日、高陽院殿ヘゾ参リケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85115aad12fb5061d7af9f55e5f2fe7f

とあって、正しくは「四月廿八日」ですね。
ま、ここは単純なケアレスミスでしょうが。
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