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金沢貞顕の妻と子

2018-03-04 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月 4日(日)23時24分13秒

小川剛生氏の『兼好法師』では兼好と金沢貞顕の庶長子・顕助の関係が深いことが強調されていますが(p83、p110等)、永仁二年(1294)に生まれた顕助の母親は誰かというと、これは分からないようですね。
さすがに私も「白拍子三条」が母親なのでは、とは言いませんが、左衛門尉・東二条院蔵人に任ぜられた永仁二年(1294)には十七歳で一児の父ですから、貞顕は生真面目一点張りの学者タイプではないようです。
永井晋氏の『金沢貞顕』「第一 貞顕誕生」の「四 妻と子」を見ると、貞顕はなかなかの子沢山ですね。
この部分、個人的に些か興味深い指摘があるので、少し引用してみます。(p17以下)。

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 四 妻と子

 貞顕の正室は、北条時村の娘である(入来院家所蔵「平氏系図」)。貞顕の正室は金沢殿の姪にあたることから、政村流と実泰流は婚姻関係によって密接に結びついていたことがわかる。
 正室の他には、貞顕が六波羅探題南方として在京していた時の夫人に「薬師堂殿」がみえる。吉田経長が「貞顕辺に内縁あるによるなり」(「吉口伝」)とみられていたことから、薬師堂殿は吉田家の縁者であろう。金沢貞顕書状にも、

  吉田前大納言室家三位局逝去の旨、同じく承り候ひ了んぬ、宮々母儀、民部卿三品、
  吉田と一躰の由その聞こえ候ひし、その事にて候やらん、別人に候か、委細承る
  べく候、吉田に籠居し候や、民部卿三品は梨下門主宮<当代御子>、聖護院准后
  <亀山院御子>母儀に候なり、(『金沢文庫古文書』四〇八号、以下『金文』と略す)

というものがある。貞顕は、民部卿三品と吉田定房(一二七四-一三三八)の正室三位局が同一人物か否か、貞将に確認を求めている。この二人は別人で、民部卿三品は北畠師親の娘親子である。また、吉田定房の弟冬方の出家についても、「冬方卿夫婦出家の事、つぶさに承り候ひ了んぬ、今の振舞ひは誠に賢人に候か、諸人惜しみ申し候らんと覚え候、返す返すいとをしく存じ候」(『金文』四〇〇号)と記している。貞顕と吉田家との間には、六波羅探題と大覚寺統の重臣との関係以上のつながりがあったと考えてよいのである。
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『尊卑分脈』の吉田家を見ると吉田定房の子は宗房・守房と女子の三人で、宗房・守房には母の記載がありませんが、女子には「冬信公室氏信母 早世」「母亀山院堀川」とあります。
この「亀山院堀川」が亀山院と当代(後醍醐)の子を産んだ後、吉田定房と「一躰」となった女性なのでしょうか。
また、同じく『尊卑分脈』の四条家を見ると、後深草院二条の叔父、四条隆顕(1243-?)の女子に「内大臣定房室」がいることは以前述べましたが、この人は「三位局」と同一人物なのでしょうか。
後で調べるつもりですが、「貞顕と吉田家との間には、六波羅探題と大覚寺統の重臣との関係以上のつながりがあったと考えてよい」のであれば、出家後の四条隆顕(法名「顕空」)も貞顕と何らかの関係を持った可能性が出てきます。
というか、「白拍子三条」が後深草院二条であれば、二条と顕空上人経由で「貞顕と吉田家との間には、六波羅探題と大覚寺統の重臣との関係以上のつながり」ができた可能性もありますね。


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 貞顕の男子には、永仁二年(一二九四)に生まれた長子顕助を筆頭に、貞将・貞冬・貞匡・貞高・貞助・顕恵・道顕の八人が確認される。この他に、徳治元年(一三〇六)に卒去した男子がいる。貞顕の娘には、嘉暦四年(一三二九)三月に十一歳で亡くなった娘(『四十九日願文 嘉暦四年五月九日 崇顕』)、賀島氏が養育して元亨元年(一三二一)に亡くなった娘(『悲母遠忌旨趣』)、元徳四年(一三三二)四月十五日に法事を行なった娘(『真言宗大意』)が確認される。貞顕の夫人や娘があまり明らかでない大きな理由は、金沢氏が彼の代で滅亡したためであろう。また、鎌倉後期が財産譲与の形態が分割相続から嫡子単独相続への移行期にあたり、系図から女性に関する記述が減少したことも無関係ではないであろう(飯沼賢司「系譜史料論」『岩波講座日本通史 別巻三』)。
 貞顕の長子顕助は永仁二年に誕生し、三条公茂の猶子となって仁和寺真乗院を継承した。嘉元三年(一三〇五)には真乗院に入るために上洛したので、当初から庶子として扱われていたと考えられる。
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顕助の仁和寺真乗院継承に一悶着あったことは、私は小川剛生氏の『兼好法師』でつい最近知ったばかりです。
同書には「顕助を真乗院に容れることについては、転法輪三条家出身の前院主教助が反対したが、貞顕の探題在任中に実現させようとする動きが優り、顕助が内大臣転法輪三条公茂(きんもち)の猶子となることで決着したのである」(p84)とあります。

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 嫡子は貞将である。前田元重氏は、貞将の生年は乾元元年(一三〇二)と推定した(前田元重編「金沢貞顕略年譜」)。この推定によると、貞顕が貞将の母を妻としたのは六波羅探題として上洛する前になる。貞将の母は貞顕の正室(北条時村娘)と考えてよいのであろう。
 貞将の弟貞冬もまた兄を追うような順調な昇進を遂げた。貞冬の「冬」は吉田定房の弟冬方の偏諱であろう。貞冬の母は、薬師堂殿なのではないだろうか。
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「四 妻と子」はもう少し続くのですが、省略します。
貞顕書状にあった「一躰」から、私は『兼好法師』に出てきた顕助と堀川具親母の「一躰」を連想したのですが、当該部分の小川氏の叙述には違和感を感じる箇所がいくつかあります。
もう少し後に検討しようかと思っていたのですが、次の投稿で少しだけ問題点を指摘しておきます。

堀川具親の母と真乗院顕助の「一躰」(その1)(その2)

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