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堀川具親の母と真乗院顕助の「一躰」(その1)

2017-11-27 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月27日(月)12時27分45秒

『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』で私が若干の疑問を感じたのは村上源氏・堀川家に関する部分です。
『徒然草』と『兼好歌集』には堀川家関係者が頻りに登場しており、従来は兼好は堀川家に「家司」として仕えていたのであろうと言われていた訳ですが、小川氏は次のように述べます。(p85以下)

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 堀川家に迎えられた貞顕の娘

 通説では兼好の主家とされてきた公家、堀川家との縁も、実は兼好出家後の正和年間後半、真乗院と金沢貞顕を介して結ばれたと考えられる。少し煩瑣となるが、当時の公武融合の実例としても興味深いので、紹介しておきたい(図版3-5)。
 貞顕は正和三年(一三一四)十一月に六波羅探題北方の職を解かれて東下した。その直前、定有なる人物が、貞顕の女子一人を堀川家に迎えることを称名寺の釼阿に持ち掛けた。定有は醍醐寺の僧らしい。堀川家と貞顕は直接に接触せず、それぞれの代理人の定有と釼阿とが交渉しているのである。
 当時の堀川家は、具守(百七段に登場する「堀川内大臣殿」)の晩年に当たり、早世した嫡男具俊の息、権中納言具親を養子にして家嫡に定めていた。問題は具守の女で具親には伯母であり姉となる琮子の身上であった。彼女は永仁六年(一二九八)十月、後伏見天皇の大嘗会御禊で女御代を務めた。女御代はそのまま入内することが多いが、後伏見は当時十一歳、かつ三年後に退位したので、琮子は入内の機会を失って実家に止まっていた。しかし一度は女御に擬されたので、朝廷から皇室領荘園の播磨国印南荘・筑前国楠橋荘以下の領家職が与えらえた。堀川家では未婚である琮子の将来を鑑み、その猶子(名目上の養子)となる、後見のしっかりした女性を捜していたのである。釼阿宛ての定有書状を引用する(金文一六六三号)。

  抑も粗ら申さしめ候、彼の御方〔貞顕〕の御捨子一人両人の間、猶子の事、御秘計に預かり候
  の条、何様たるべく候や、かの黄門〔具親〕の姉女御代〔琮子〕、一子無く候、又黄門母儀も此の卿〔具親〕の外、
  他子無く候、その上彼の卿母儀は、真乗院〔顕助〕と一躰の条、定めて御存知候か、小坂禅尼の
  遺命に任せて、扶持に預かり候、仍て真乗院と彼卿と当時内外無く申し奉り候、かた
  がた以てその寄せ候か、御女子多くおはしますの由承り候、其の中定めて御捨子おはし
  ます□□猶々御和讒候はゞ喜び存じ候、

 貞顕には娘がたくさんいらっしゃるので、きっと「御捨子」がおありではないでしょうか、「和讒(働きかけ、斡旋の意)」していただければありがたいです、とかなり不躾な依頼である。このやりとりからすると、それまで堀川家は金沢流北条氏とまったく接点を持たなかったらしい。そこで真乗院顕助と具親母は「一躰」であり、だから顕如と具親もまた隔てなく交際していると告げて、貞顕の警戒を解こうとしたのである。
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兼好の生年は明確ではありませんが、弘安六年(1283)という江戸時代からの説があって、小川氏も「不自然でなく、当面この説に従ってよいであろう」と言われています。(p54)
顕助(1294-1330)は金沢貞顕(1278-1333)が一七歳のときに生れた庶長子で、嘉元三年(1305)、仁和寺真乗院に迎えられ、八代目院主となります。(p83)
釼阿はかなり年長で、弘長元年(1261)生まれですね。
さて、『徒然草』第238段の自賛七箇条に登場し、兼好と非常に親しかったことが伺われる堀川具親は顕助と同年の生まれなので、「一躰」(いったい)云々はなかなか意味深長です。

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 「一躰(一対)」とは婚姻関係を意味する語である。正和三年ならば、具親は顕助と同年で二十一歳、かりにその母が三十八歳くらいとしても、顕助と「一躰」というのは醜聞であろう。釼阿に「定めて御存知候か(きっともう御存知でしょうが)」というのは、ほんらい隠すようなことなのだけれど、というニュアンスを含む。しかし当時の高僧が女性を養うことは珍しくなく、とはずがたりの「有明の月」も、作者とまさに「一躰」になる(「有明の月」も仁和寺の高僧ということになっていた)。少なくとも顕助と具親母は生活をともにしていたのである。
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ということで(p87以下)、いささか唐突に『とはずがたり』が登場するのですが、この後に続く部分も含め、小川氏は『とはずがたり』が自伝風小説ではなく、事実の記録と考えておられるようですね。
長くなったので、いったん切ります。

>筆綾丸さん
>以下の記述などは、今後の兼好像の基準になるのでしょうか。

小川説が学説史上の画期となるのは間違いないでしょうね。
金沢文庫古文書の解釈は私のような素人には近づけない世界なので、歴史学者の評価を聞きたいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

卜部四郎太郎兼好 2017/11/25(土) 19:11:26
小太郎さん
ご紹介の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』を第二章まで読んでみました。何かを云々できる知識はありませんが、以下の記述などは、今後の兼好像の基準になるのでしょうか。
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 卜部兼好は仮名を四郎太郎という。前章で一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定したが、そこから伊勢国守護であった金沢流北条氏のもとに赴いた。亡父は関東で活動し、称名寺長老となる以前の明忍房釼阿とも親しく交流し、正安元年(1299)に没して同寺に葬られた。父の没後、母は鎌倉を離れ上洛したか。しかし姉は留まり、鎌倉の小町に住んだ。倉栖兼雄の室となった可能性がある。兼好は母に従ったものの、嘉元三年(1305)夏以前、恐らくこの姉を頼って再び下向した。そして母の指示を受け、施主として父の七回忌を称名寺で修した。さらに延慶元年(1308)十月にも鎌倉・金沢に滞在し、翌月上洛し釼阿から貞顕への書状を託された。また同じ頃、恐らくは貞顕の意を奉じて、京都から釼阿への書状を執筆し発送した。(53頁~)
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明日から小旅行に出るので、次回の投稿は一週間後です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E4%BA%94%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
https://www.youtube.com/watch?v=68UpSPzdBZY
これはスターリン賞を受賞したとのことですが、佳い曲ですね。
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