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「有明の月」は実在の人物なのか。

2018-03-05 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月 5日(月)11時43分0秒

『増鏡』を最初から読み始めて「巻八 あすか川」の後嵯峨院崩御の場面に至ってから、この場面の描き方について『増鏡』と『とはずがたり』・『五代帝王物語』を比較し、また、この三書の間でその描き方に奇妙な不一致がある中御門経任という人物について、主として本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』に拠りつつ厳密な史料に基づいた人物像を探り、ついで『とはずがたり』に描かれた中御門経任像を確認した上で、『とはずがたり』の「近衛大殿」に比定されている鷹司兼平と亀山院、そして中御門経任の関係を探ろうとしたのですが、これはあまりうまく行きませんでした。
その後、本郷恵子氏の『とはずがたり』論を眺めた上で、小川剛生氏の『兼好法師』の衝撃から三ヵ月経った時点での感想を少し述べ、金沢貞顕の右筆である倉栖兼雄の書状に出てくる「小林の女房」と伏見小林に住んでいた後深草院二条の乳母の母、「宣陽門院の伊予殿」との間に何らかの関係があるのではないか、と思って少し調べている途中で、鎌倉後期に流行した「早歌」という芸能の検討から、後深草院二条は「白拍子三条」の「隠れ名」を用いて「源氏」「源氏恋」を作詞作曲して早歌の興隆に貢献するとともに、金沢北条氏と密接な関係を持ち、早歌に熱心だった金沢貞顕とも直接の面識があったのではないか、と推測を重ねて来ました。
このようにここ暫く『増鏡』の原文を離れて目まぐるしく話題を変えてきましたが、これは『増鏡』の後半部分は『とはずがたり』との関係を正確に把握しなければ理解できず、そしてそれは後深草院二条が如何なる人物であったかという問題と切り離せないというのが私の基本的姿勢だからです。
国文学界の古くからの通説では『増鏡』作者は二条良基(1320-88)とされており、最近では小川剛生氏が、丹波忠守が執筆し、二条良基が監修したという説を唱えているので、私も一応それらの見解を尊重し、『増鏡』の前半部分まで摂関家に着目してそれなりに検討してみたのですが、実際には『増鏡』における摂関家の扱いは質量とも貧弱で、摂関家に着目しても具体的な成果は何も出て来ませんでした。
まあ、それは最初から分っていたことで、『増鏡』の後半部分でも摂関家に注目しているだけでは何の成果も期待できません。
そこで、ここ暫くは様々な論点に触れつつ、『とはずがたり』と後深草院二条について検討した上で、改めて『増鏡』の後半部分に取り組もうというのが現在の方針です。

ということで、ここで早歌から少し離れて、小川剛生氏の『兼好法師』で私が違和感を覚えた金沢貞顕の庶長子・顕助と堀川具親母の関係に関する部分の検討に移りたいと思います。
小川氏は他の多くの国文学者と同様、『とはずがたり』を基本的に事実の記録と考えておられるようで、私にとっては一番嘘くさい存在のように思われる「有明の月」についても次のように書かれています。(『兼好法師』、p87以下)

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 「一躰(一対)」とは婚姻関係を意味する語である。正和三年ならば、具親は顕助と同年で二十一歳、かりにその母が三十八歳くらいとしても、顕助と「一躰」というのは醜聞であろう。釼阿に「定めて御存知候か(きっともう御存知でしょうが)」というのは、ほんらい隠すようなことなのだけれど、というニュアンスを含む。しかし当時の高僧が女性を養うことは珍しくなく、とはずがたりの「有明の月」も、作者とまさに「一躰」になる(「有明の月」も仁和寺の高僧ということになっていた)。少なくとも顕助と具親母は生活をともにしていたのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a555dacdfa3c255e4ffe5f8979a992f

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 ここに「小坂禅尼の遺命に任せて」とある。定有と釼阿との間では自明なので事情は略されてしまっているが、「小坂禅尼の遺言で、(具親母は真乗院に)扶持されている」ということなのであろう。小坂禅尼とは村上源氏嫡流の久我家の人で、徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基の姉である。禅尼は多くの荘園を譲られて、下醍醐の勝倶胝院のパトロンでもあり(この寺はやはりとはずがたりに登場する。作者が後宮から出奔して、秘密の出産を遂げた尼寺である)、醍醐寺・仁和寺など東密系寺院に顔が利いたのであろう。そこで早く寡婦となった同じ村上源氏一門の具親母を憐れんでか、真乗院に寄寓させたのであろう。なお小坂は例の祇園社の門前で(66頁)、禅尼はここに住んでいたのである。地縁によって貞顕は小坂禅尼と知己であった可能性が高く、ゆえにその遺命である旨を持ち出したのであろう。ともかく顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆となったことは確かなようである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c00fd81296ddc93e0110093a72a4e6f

ここに出てくる「小坂禅尼」は後深草院二条の従姉妹で、『徒然草』と『とはずがたり』の関係を詰めて考えて行くと、本当に笑ってしまうくらい狭い範囲の人間関係の問題になることが多いんですね。
ま、それはともかく、小川氏の発想で極めて奇妙な印象を与えるのは、具体的な古文書の分析を踏まえて「当時の高僧が女性を養うことは珍しくな」いと判断し、従って「有明の月」と後深草院二条の関係も事実だったのだろうと推測するのではなく、逆に、『とはずがたり』を根拠にして「当時の高僧が女性を養うことは珍しくな」かったと断定し、だから顕助と堀川具親母も後深草院二条と「有明の月」と同様に「一躰」であり、「少なくとも顕助と具親母は生活をともにしていたのである」と続けている点です。
兼好に関しては極めて慎重に分析を進める小川氏にしては、『とはずがたり』への接近の仕方はずいぶん無防備ですね。

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