第112回配信です。
※04:30あたり、「両統迭立のきっかけとなったのは1274年、北条時宗が後深草上皇の要求に従って、その皇子、後の伏見天皇を皇太子にしてしまった」云々と言っていますが、これは1275年(建治元)の誤りです。
「巻九 草枕」(その5)─煕仁親王立太子
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『室町将軍の権力 鎌倉幕府にはできなかったこと』(朝日文庫、2020)
『室町将軍の権力 鎌倉幕府にはできなかったこと』(朝日文庫、2020)
図らずも全国政権に押し上げられたために滅亡した鎌倉幕府。室町幕府は前代の失敗に鑑み将軍権力を活用し、「朝廷を自由に動かすこと」に努めた。尊氏・直義の幕府創成期と三代義満時代の細川頼之を中心に、将軍権力の変遷を読み解く。
https://publications.asahi.com/product/22402.html
二、木下論文の続き
p134
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(1)石母田正
地頭設置についての戦前の通説は、以下のようなものであった。すなわち、文治元年(一一八五)一一月のいわゆる文治勅許により、全国の荘園公領すべてに地頭が設置されたものの、朝廷側からの猛反発が起こり、幕府側が譲歩した結果、文治二年、地頭設置地は平家没官領と謀反人跡(広義の没官領。以下本章では単に「没官領」と呼称)のみに後退したのである、と[牧一九三五]。当初付与された包括的な権限が、のちには部分的なものに後退するという筋書きを、本章では<後退>モデルと呼称したい。
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p135
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【前略】当初(文治元年)にすべての荘園公領に地頭が設置されたという旧説を否定した点は通説化した。筆者の観点からは、石母田の所説によって、前述の<後退>モデルが相対化されたことに注意しておきたい。
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p137
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しかし注意すべきは、大山説の大枠は、戦前以来の<後退>モデルにかたちを変えて依拠している点である。これは大山のみの話ではない。たとえば一九八〇年代初頭の佐藤進一が、「文治二年から同五年の奥州征伐を経て建久初年に至る数年は、頼朝権力後退の歴史である」と述べる[佐藤進一一九八三]のように、文治勅許で広汎な権限を獲得するも文治二年以降に後退するという筋書きは、当時の諸研究では根強く残存していた。一旦は石母田によって相対化されるきっかけが作られた<後退>モデルは、思考の枠組みとしてはなお影響力を保っていたと評価できよう。
これを本格的に解体したのが、川合康であると筆者は考える。次項でそれを検討しよう。
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0111 木下竜馬氏「治承・寿永の内乱から生まれた鎌倉幕府─その謙抑性の起源」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6345a16c7c0729fa520a1f463e51af15
川合説の認識の枠組みは <拡大→整理>モデル
このモデルにおける主なモチーフは、発展か後退かではなく、周期的反復〔リフレイン〕
p142
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川合自身は、「頼朝の「政治」」への着目が示すとおり、拡大局面から整理局面への移行(あるいはその逆)を、きわめて作為的な、矛盾と葛藤に満ちたものとしてとらえていた。しかし、上述のような研究動向において、戦争が飢饉、災害などと一括して「危機」「非常時」として把握された結果、整理局面への移行は戦争が終了すれば当然訪れるものと認識され、矛盾・葛藤を欠いた機械的反復のイメージは単純化されてしまったように見受けられる。このような枠組みのなかで、義経追討を名目にあえて戦争状態を現出させて地頭設置を推進したり、御家人整理のため奥州合戦を引き起こしたりする頼朝の戦略性、政治性の存在を正しく評価することがどうしてできようか。機械的反復のイメージを敷衍していけば、治承・寿永の内乱と鎌倉幕府成立の画期性は、果てなく相対化されていくこととなろう。
なぜ成立時の幕府は自己抑制が必要だったのであろうか。それは、内乱が終結すればごく自然になされるものでは決してないはずである。次節では、御家人制をめぐる研究成果を概観することで、この次なる問いを解くヒントを探したい。それは、前代から治承・寿永の内乱の画期性をみることにもつながるだろう。
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(1)石母田正
地頭設置についての戦前の通説は、以下のようなものであった。すなわち、文治元年(一一八五)一一月のいわゆる文治勅許により、全国の荘園公領すべてに地頭が設置されたものの、朝廷側からの猛反発が起こり、幕府側が譲歩した結果、文治二年、地頭設置地は平家没官領と謀反人跡(広義の没官領。以下本章では単に「没官領」と呼称)のみに後退したのである、と[牧一九三五]。当初付与された包括的な権限が、のちには部分的なものに後退するという筋書きを、本章では<後退>モデルと呼称したい。
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p135
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【前略】当初(文治元年)にすべての荘園公領に地頭が設置されたという旧説を否定した点は通説化した。筆者の観点からは、石母田の所説によって、前述の<後退>モデルが相対化されたことに注意しておきたい。
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p137
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しかし注意すべきは、大山説の大枠は、戦前以来の<後退>モデルにかたちを変えて依拠している点である。これは大山のみの話ではない。たとえば一九八〇年代初頭の佐藤進一が、「文治二年から同五年の奥州征伐を経て建久初年に至る数年は、頼朝権力後退の歴史である」と述べる[佐藤進一一九八三]のように、文治勅許で広汎な権限を獲得するも文治二年以降に後退するという筋書きは、当時の諸研究では根強く残存していた。一旦は石母田によって相対化されるきっかけが作られた<後退>モデルは、思考の枠組みとしてはなお影響力を保っていたと評価できよう。
これを本格的に解体したのが、川合康であると筆者は考える。次項でそれを検討しよう。
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0111 木下竜馬氏「治承・寿永の内乱から生まれた鎌倉幕府─その謙抑性の起源」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6345a16c7c0729fa520a1f463e51af15
川合説の認識の枠組みは <拡大→整理>モデル
このモデルにおける主なモチーフは、発展か後退かではなく、周期的反復〔リフレイン〕
p142
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川合自身は、「頼朝の「政治」」への着目が示すとおり、拡大局面から整理局面への移行(あるいはその逆)を、きわめて作為的な、矛盾と葛藤に満ちたものとしてとらえていた。しかし、上述のような研究動向において、戦争が飢饉、災害などと一括して「危機」「非常時」として把握された結果、整理局面への移行は戦争が終了すれば当然訪れるものと認識され、矛盾・葛藤を欠いた機械的反復のイメージは単純化されてしまったように見受けられる。このような枠組みのなかで、義経追討を名目にあえて戦争状態を現出させて地頭設置を推進したり、御家人整理のため奥州合戦を引き起こしたりする頼朝の戦略性、政治性の存在を正しく評価することがどうしてできようか。機械的反復のイメージを敷衍していけば、治承・寿永の内乱と鎌倉幕府成立の画期性は、果てなく相対化されていくこととなろう。
なぜ成立時の幕府は自己抑制が必要だったのであろうか。それは、内乱が終結すればごく自然になされるものでは決してないはずである。次節では、御家人制をめぐる研究成果を概観することで、この次なる問いを解くヒントを探したい。それは、前代から治承・寿永の内乱の画期性をみることにもつながるだろう。
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