第111回配信です。
小川剛生氏『「和歌所」の鎌倉時代』に移る前に、権門体制論の最近の動向として、木下竜馬氏(東京大学史料編纂所助教)と下村周太郎氏(早稲田大学准教授)の見解を少しだけ検討しておきたい。
有富純也・佐藤雄基編『摂関・院政期研究を読みなおす』(思文閣出版、2023)
https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784220663/
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第5章 治承・寿永の内乱から生まれた鎌倉幕府─その謙抑性の起源
はじめに
第一節 地頭─研究史の概観
(1)石母田正
(2)大山喬平
(3)川合康
(4)川合説の周辺
第二節 御家人制
(1)御家人制の性格
(2)平家家人制とくらべてみる
おわりに
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p132
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現代の鎌倉幕府論の大きな論点は、中世の国制において部分的な存在である幕府が、いかなる外延をもっていたかということである[高橋典幸二〇一三]。鎌倉幕府は、東国、ないし地頭・御家人といったみずからの領域を定め、概していえば、その外への関与は消極的であった。かかる鎌倉幕府の謙抑性(自己抑制の傾向をもつこと)は、院政期の諸権門や後続の室町幕府などとくらべても特異である[本郷二〇一〇]。この性格はなにに由来するのか。謎を解く鍵は、幕府成立時にあるのではなかろうか。
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[高橋典幸二〇一三]…「鎌倉幕府論」(『岩波講座日本歴史6 中世1』岩波書店)
[本郷二〇一〇]…本郷恵子『室町将軍の権力』(朝日新聞出版、二〇二〇)
(私見)
国家の本質は正当的暴力の独占。
幕府は東国では正当的暴力を独占しており(従って「国家」であるが)、西国では正当的暴力を独占していない。
朝廷は承久の乱を経て直接的な暴力装置を失ったが、西国では権門寺社も、また本所一円地の武士も朝廷由来の「正当的暴力」をなお分有している。
従って、東国では全く謙抑的ではないが、西国では謙抑的にならざるを得ない。
「中世の国制において部分的な存在である幕府」
→木下竜馬氏は権門体制論者。「国家」の定義はせず。
「朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」(by 高橋典幸氏)(2021年 9月29日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8fc879a7e15b24002c5aa3efd256d232
東京大学教授・高橋典幸氏に捧ぐ「隠岐にて実朝を偲ぶ歌(後鳥羽院)」〔2021-10-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/715897be49d108c681eb0c462e2af4f8
p137
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(3)川合康
一九八〇年代後半から、荘郷地頭の研究史を塗り替えたのが川合康である[川合二〇〇四b]。川合は、治承・寿永の内乱において、現地の鎌倉方が、敵方(たとえば平氏やその一族など)とみなしたものの所領を独自に占領し、その地の地頭としてのちに追認されるパターンを見いだし、地頭成立の典型とみなした。戦争行為としての敵方所領没収という新視点を端緒に、既存の研究を根底からみなおしていったのである。
川合はみずからの研究の画期性として二つの視角をあげる。
第一が、公権移譲論批判である。【中略】
第二が、戦争論である。【中略】
川合説の特徴は、政治過程などの上部構造や生産関係などの下部構造とは異なる、戦争という独自の運動原理をもつ次元を設定し、そこで規定されたものとして内乱期の諸現象を解釈したことである。すると当然、戦争そのもの、すなわち、武器、戦闘法、軍事施設、兵士の動員方法などが検討の正面に据えられる。川合説が画期的であったのは、治承・寿永の内乱を検討するにあたり、承久の乱や、南北朝期あるいは戦国期における戦争状況での類例を積極的に採用した点である。つまり、中世の戦争においては、およそ似通ったことが起こりうるということである。
そして、戦争特有の展開として、戦時と戦後という軸で、治承・寿永の内乱の過程を整理しなおした。すなわち、戦時には敵の撃破と軍事行動の遂行が第一とされる。一方、戦争に勝利したのちは平時への移行を目指した戦後処理が進行しつつ、戦時に獲得したもののの一部を平時に定着させる試みも行われる。
【中略】
以上のような認識の枠組みを、<拡大→整理>モデルと名付けたい。このモデルにおける主なモチーフは、発展か後退かではなく、周期的反復〔リフレイン〕である。
整理局面について、特に川合が検討の俎上にあげたのが、御家人制の再編である。戦時に獲得したものを平時に定着させる「頼朝の「政治」」をここに見いだし、文治五年(一一八九)の奥州合戦の画期性を評価することになる。
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[川合二〇〇四b]…『鎌倉幕府成立史の研究』(校倉書房)
0011 川合康氏の奇妙な権門体制論(その1)(その2)〔2024-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/221f61f251ba8c0ddcf555d01673cef9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9d60347b2ce27855fc69002e121f7368
川合康氏「鎌倉幕府研究の現状と課題」を読む。(その1)~(その5)〔2023-03-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d3942ccef43904d40d2affb13acd1ce
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9dbdd561993661b7528b012cd846bc1d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c86ac9836376b48ac6ffc692e720e03a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/445055e235c4074de2517fb032953962
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/605611b8db9d85327161d4bce4139188
有富純也・佐藤雄基編『摂関・院政期研究を読みなおす』(思文閣出版、2023)
https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784220663/
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第5章 治承・寿永の内乱から生まれた鎌倉幕府─その謙抑性の起源
はじめに
第一節 地頭─研究史の概観
(1)石母田正
(2)大山喬平
(3)川合康
(4)川合説の周辺
第二節 御家人制
(1)御家人制の性格
(2)平家家人制とくらべてみる
おわりに
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p132
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現代の鎌倉幕府論の大きな論点は、中世の国制において部分的な存在である幕府が、いかなる外延をもっていたかということである[高橋典幸二〇一三]。鎌倉幕府は、東国、ないし地頭・御家人といったみずからの領域を定め、概していえば、その外への関与は消極的であった。かかる鎌倉幕府の謙抑性(自己抑制の傾向をもつこと)は、院政期の諸権門や後続の室町幕府などとくらべても特異である[本郷二〇一〇]。この性格はなにに由来するのか。謎を解く鍵は、幕府成立時にあるのではなかろうか。
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[高橋典幸二〇一三]…「鎌倉幕府論」(『岩波講座日本歴史6 中世1』岩波書店)
[本郷二〇一〇]…本郷恵子『室町将軍の権力』(朝日新聞出版、二〇二〇)
(私見)
国家の本質は正当的暴力の独占。
幕府は東国では正当的暴力を独占しており(従って「国家」であるが)、西国では正当的暴力を独占していない。
朝廷は承久の乱を経て直接的な暴力装置を失ったが、西国では権門寺社も、また本所一円地の武士も朝廷由来の「正当的暴力」をなお分有している。
従って、東国では全く謙抑的ではないが、西国では謙抑的にならざるを得ない。
「中世の国制において部分的な存在である幕府」
→木下竜馬氏は権門体制論者。「国家」の定義はせず。
「朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」(by 高橋典幸氏)(2021年 9月29日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8fc879a7e15b24002c5aa3efd256d232
東京大学教授・高橋典幸氏に捧ぐ「隠岐にて実朝を偲ぶ歌(後鳥羽院)」〔2021-10-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/715897be49d108c681eb0c462e2af4f8
p137
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(3)川合康
一九八〇年代後半から、荘郷地頭の研究史を塗り替えたのが川合康である[川合二〇〇四b]。川合は、治承・寿永の内乱において、現地の鎌倉方が、敵方(たとえば平氏やその一族など)とみなしたものの所領を独自に占領し、その地の地頭としてのちに追認されるパターンを見いだし、地頭成立の典型とみなした。戦争行為としての敵方所領没収という新視点を端緒に、既存の研究を根底からみなおしていったのである。
川合はみずからの研究の画期性として二つの視角をあげる。
第一が、公権移譲論批判である。【中略】
第二が、戦争論である。【中略】
川合説の特徴は、政治過程などの上部構造や生産関係などの下部構造とは異なる、戦争という独自の運動原理をもつ次元を設定し、そこで規定されたものとして内乱期の諸現象を解釈したことである。すると当然、戦争そのもの、すなわち、武器、戦闘法、軍事施設、兵士の動員方法などが検討の正面に据えられる。川合説が画期的であったのは、治承・寿永の内乱を検討するにあたり、承久の乱や、南北朝期あるいは戦国期における戦争状況での類例を積極的に採用した点である。つまり、中世の戦争においては、およそ似通ったことが起こりうるということである。
そして、戦争特有の展開として、戦時と戦後という軸で、治承・寿永の内乱の過程を整理しなおした。すなわち、戦時には敵の撃破と軍事行動の遂行が第一とされる。一方、戦争に勝利したのちは平時への移行を目指した戦後処理が進行しつつ、戦時に獲得したもののの一部を平時に定着させる試みも行われる。
【中略】
以上のような認識の枠組みを、<拡大→整理>モデルと名付けたい。このモデルにおける主なモチーフは、発展か後退かではなく、周期的反復〔リフレイン〕である。
整理局面について、特に川合が検討の俎上にあげたのが、御家人制の再編である。戦時に獲得したものを平時に定着させる「頼朝の「政治」」をここに見いだし、文治五年(一一八九)の奥州合戦の画期性を評価することになる。
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[川合二〇〇四b]…『鎌倉幕府成立史の研究』(校倉書房)
0011 川合康氏の奇妙な権門体制論(その1)(その2)〔2024-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/221f61f251ba8c0ddcf555d01673cef9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9d60347b2ce27855fc69002e121f7368
川合康氏「鎌倉幕府研究の現状と課題」を読む。(その1)~(その5)〔2023-03-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d3942ccef43904d40d2affb13acd1ce
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9dbdd561993661b7528b012cd846bc1d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c86ac9836376b48ac6ffc692e720e03a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/445055e235c4074de2517fb032953962
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