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「正一位蛙大明神」(by昭和天皇)

2014-09-10 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月10日(水)11時11分23秒

>筆綾丸さん
>ドトール
DOUTORが「医者・博士・獣医師」という意味なら、ポルトガル語を解する人は店名を見て少し落ち着かない気持ちになりそうですね。

>『昭和天皇実録』
原武史氏と同様、私にとっても『昭和天皇実録』の最大の謎は昭和天皇の宗教面ですね。

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昭和天皇実録:10歳で執筆「裕仁新イソップ」

(前略)
実録によると、学習院初等科4年生だった10歳の時、母の貞明皇后からイソップ物語を教えてもらい、童話を書くことを発案、自分の名前を付けた「裕仁(ひろひと)新イソップ」と命名した。第一作は「海魚の不平」という題で、ホウボウやタイが他の魚の才能をねたむのを、目の不自由な別の生き物がたしなめるという内容。「自分よりも不幸な者の在る間は身の上の不平を言ふな」との言葉を付けたという。
 生物学者としての顔も持つ天皇だが、幼い頃から生き物への興味は強かったようだ。5年生の授業でカエルを解剖して帰ってきた後、トノサマガエルの解剖に挑戦したこともあった。体内の器官を観察して箱に入れて庭に埋め、「蛙(かえる)」の神様として「正一位蛙大明神」の称号を与えた、と実録は記載している。

「正一位蛙大明神」と聞けば、多くの歴史研究者は、なぜ「蛙大権現」ではなく「蛙大明神」なのか、という疑問を抱くと思います。
「蛙大権現」は山王一実神道で、「蛙大明神」は吉田神道ですから、昭和天皇が「正一位蛙大明神」の称号を与えたということは、昭和天皇が主体的に吉田神道が正しいと判断されたことを意味するのか。
それとも、あるいは母の貞明皇后に吉田神道への信仰があって、幼少期の昭和天皇は「蛙大明神」に思い入れを持つ貞明皇后へ向けたパフォーマンスとして「蛙大明神」を選択されたのか。
謎ですね。

原武史氏の見解で少し変に感じるのは、<45年7月30日に大分県の宇佐神宮、8月1日に埼玉県の氷川神社、同2日に福岡県の香椎宮に勅使を派遣し、「敵国の撃破と神州の禍患(かかん=災い)の祓除(ばつじょ=払い除く)を祈念」した>(日経新聞)という事実関係の中から、原氏は8月1日の埼玉県氷川神社を全く無視している点ですね。
氷川神社の祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命だそうですが、この三神は貞明皇后と何か関係があるのか。
少なくとも、この三神は貞明皇后が格別の思い入れを持ったという神功皇后とは特に関係はないと思いますが、氷川神社は神功皇后ルート以外に貞明皇后と結びつく要素は何かあるのか。

氷川神社

原氏の見解に感じる疑問の第二点ですが、昭和天皇の宇佐神宮・香椎宮(プラス氷川神社)への勅使派遣は、天皇という公的資格に基づく公的行事であって、昭和天皇個人の宗教的信念の発露ではないんじゃないですかね。
前者はあくまでパブリックな行為であり、同じ宗教的行為であっても全くプライベートな性格を持つ「正一位蛙大明神」の称号授与とは異なりますね。
宇佐神宮・香椎宮(プラス氷川神社)への勅使派遣の詳しい事情は知りませんが、少なくとも原武史氏の疑問にはトンチンカンな響きを感じます。

ウィキペディアを見たら、原武史氏は1962年生まれで慶応義塾高校・早稲田大学政経学部卒業、国立国会図書館と日本経済新聞に勤務、特に日経記者時代は宮内記者会に所属し、昭和天皇の病状報道に従事したそうですね。
私は原武史氏の著書はあまり読んでいませんが、東島誠氏が絶賛されている『滝山コミューン一九七四』は、正直、あまり面白くはありませんでした。

「中世自治とソシアビリテ論的展開」再読
原武史

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Double Ninth Festival の 『昭和天皇実録』 2014/09/09(火) 13:09:21
http://en.wikipedia.org/wiki/Double_Ninth_Festival
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO76818440Z00C14A9MM8000/
『昭和天皇実録』の公開(9月9日)に関し、日経朝刊社会面には、明治学院大学教授原武史氏の見方として次のようにあります。
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終戦直前の45年7月30日と8月2日、空襲の危険を顧みず、九州の宇佐神宮と香椎宮に勅使を派遣し、御祭文ではかなり強い調子で敵国の撃破を祈っている。この時期、天皇の心は戦争終結で固まっていたはずなのに、なぜ戦勝祈願なのか。実録を読んでみて、この部分が最大の謎だと思った。
はたしてこれは天皇の主体的な判断だったのか。そうではなく、神功皇后に思い入れをもち、45年になっても戦勝を祈り続けた貞明皇后へ向けたパフォーマンスではなかったか。
7月27日には、内務省が貞明皇后の軽井沢疎開計画を作成している。疎開というのは本土決戦が前提。このために戦争継続のポーズをとった可能性もある。香椎宮は神功皇后、宇佐神宮は応神天皇が主祭神。神功皇后は応神天皇を妊娠したまま三韓征伐を行った伝説があるが、伊勢神宮ではなく香椎宮と宇佐神宮に戦勝を祈ったところに貞明皇后の影がちらつくのだ。
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そして、戦勝を祈願する終戦直前の御祭文の一例が掲載されているのですが、抑々古来、終戦を祈願する御告文(御祭文)や平和条約締結を祈願する御告文(御祭文)などという前例は宮中において絶無であり、形式的には戦勝祈願の形を取らざるを得ず、祭神に対し終戦だの降伏だの和平だのと死んでも言えず、戦勝祈願の形でなければ嘉納してくれないと考えられたのであるまいか、というような疑問が湧いてきました。
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辞別けて白さく今し例も有らや・・・敵国を撃破り事向けしめむとなも思ぼし食す厳しき神霊弥高に降鑑して神奈我良・・・大御旨を聞食せと恐み恐み白す
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貞明皇太后の神功皇后への敬慕の念がどのようなものだったのか、まったく知らないのですが、この文体に、降伏、終戦、和平、占領・・・などは、どうしても似合わない。貞明皇太后の影を深読みせずとも解釈は可能ではあるまいか。終戦の意思と祭文の趣旨は別次元の問題だ、と考えればいいんです。

小太郎さん
http://ja.glosbe.com/pt/ja/doutor
ドトールはポルトガル語なんですね。
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