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後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その1)

2022-12-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

先日の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』最終回では、後鳥羽院は「逆輿」で配流されていましたが、あれは慈光寺本『承久記』に基づくストーリーですね。
慈光寺本を底本とする『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(校注担当は益田宗・久保田淳氏、岩波書店、1992)には、

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 去程〔さるほど〕ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、伊王左衛門入道御供ニテ、鳥羽殿ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ、西ノ御方・大夫殿・女官〔によくわん〕ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕にても御命尽〔つき〕サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。【後略】
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とあります。(p355)
『吾妻鏡』には逆輿云々はありませんし、『承久記』の諸本全てを確認した訳ではありませんが、どうも慈光寺本特有の記事のようです。
後醍醐天皇の場合はどうだったのかな、と思って、兵藤裕己校注『太平記(一)』(岩波文庫、2014)を見たら、

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  先帝遷幸の事、幷〔ならびに〕俊明極参内の事

 先帝をば承久の例に任せて、隠岐国に移しまゐらすべきに定まりにけり。臣として君を流し奉る事、関東もさすが恐れありとや思ひけん、このために、後伏見院の第一の御子を御位に即け奉つて、先帝御遷幸の宣旨をなさるべしとぞ計らひ申しける。【後略】
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とあります。(p195以下)
もちろん『太平記』は脚色の多い軍記物語ですから、どこまで正確かは分かりませんが、「先帝御遷幸の宣旨」という表現は刑罰としての流罪ではないようにも読めて、ちょっと面白いですね。
実際、律令法には天皇を流罪にする規定など存在するはずがないのですから、少なくとも律令法の具体的条文に基づく刑罰ではありえません。
さて、『太平記』が正しく「承久の例」を伝えているのであれば、後鳥羽院の場合も、新帝(後堀河)による「先帝御遷幸の宣旨」があったのでしょうか。
ここで『吾妻鏡』を見ると、承久三年(1221)六月十五日に泰時が六波羅に入って以降、六月中に京都と鎌倉で合戦首謀者への処分についてのやりとりがあり、七月に入ってから決定済みの処分を実行する一方、九日に新帝践祚、十三日に後鳥羽が鳥羽行宮から隠岐に出発、というスケジュールです。
興味深いのは七月一日条の「合戦張本衆公卿以下人々。可断罪之由宣下間」という表現で、公卿・殿上人の処罰は「宣下」、即ち天皇の命令によりなされた、という形式になっています。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

まあ、「宣下」といっても、この時点での天皇は僅か四歳の仲恭天皇(1218-34、九条廃帝、「仲恭」の諡号が定められたのは明治三年)ですから、本当に形式的なものですが。
そして、八日に「持明院入道親王(守貞)」が天皇在位の経歴がないにもかかわらず「治天の君」として扱われることになり、翌九日、新帝(後堀河)の践祚となります。
その後、十三日に「上皇自鳥羽行宮遷御隱岐国」となっているので、仮に『太平記』に言う「承久の例」が正しいのであれば、これは新帝による「先帝御遷幸の宣旨」に基づくものとなりそうです。
『吾妻鏡』の表現も、刑罰としての配流と明示している訳ではなく、価値中立的な「遷」、即ち空間的移動と言っているだけですね。
ここで、「逆輿」=刑罰としない論理を考えてみると、前の天皇の御在位中にはいろいろあったかもしれませんが、新しい天皇の私に謀反を起こされた訳ではなく、私は単に後鳥羽院に御引越を願っているだけで、別に罪人と扱っている訳ではありませんよ、みたいな理屈も可能だと思います。
保元の乱の場合、崇徳上皇は後白河天皇と正面から敵対し、敗北して、後白河天皇の命令により讃岐に流されたのですから、刑罰であることは明らかですが、新帝を置けば上記のような理屈が一応成り立ちますね。

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2 コメント

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マルテンサイト千年 (刀剣ファン)
2024-04-12 10:16:27
かつて島根県安来市から隠岐丸がでていて、この神器なき即位をなされた後鳥羽院の足跡をたどった話を祖父から聞いたことがありなつかしく思い出しました。
返信する
コメント、ありがとうございます。 (鈴木小太郎)
2024-04-13 20:34:03
>刀剣ファンさん
後鳥羽院の隠岐への移動ルート、一度辿ってみたいものだな、などと思っています。
返信する

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