関東も今週には梅雨入りですかねえ
緊急事態宣言は解除されましたが、まだ在宅勤務をしております。もう私の体は普通出勤には戻れない。
そんな私の見逃しドラマ視聴プロジェクト第5弾は、『夏目漱石の妻』(2016年)。
脚本は、『麒麟がくる』の池端俊策さん。このドラマで放送人グランプリというものを受賞されたそうです。
が。
んー、ワタクシ的には微妙なドラマでありました
まず気になったのは、全4話でトーンが一貫していないこと。例えるなら『吾輩は猫である』と『道草』という全く作風が異なる作品を無理やり一つのドラマに詰め込んでしまったような不自然さ、といったらいいだろうか。ユーモアの中にシリアスがあって、シリアスの中にユーモアがあるのは漱石の小説も同じだけれど、漱石の小説はその作品ごとのカラーがしっかりあって、統一感がある。でもこのドラマは、その辺りがどうもギコチナイ。。。大塚楠緒子が漱石宅を訪ねてくる場面は「え、ここでコメディ!?」だったし(直前までの鏡子は物凄い深刻だったのに)、4話冒頭の空気の重さには「3話と4話の間で彼らに一体何が・・・」状態であった。なので登場人物の言動にも「あなたそんな性格だったっけ?」と感じることがしばしば。
いっそ『道草』等の作品は無視して、鏡子さんの『漱石の思い出』のトーンに統一してドラマを作った方がよかったのではなかろうか(『漱石の思い出』の空気はこのドラマほど重くないし、統一感もある)。
鏡子役の尾野真千子さん&漱石役の長谷川博己さん。
どちらも迫真の演技だったのだけれど、鏡子&漱石か?と言われるとワタクシ的には違い。特に尾野さん。『夫婦善哉』でも少し感じたことだけど、尾野さんの演技はどことなく空気が神経質というか重い(一見そうは見えないし、ご本人も明るい方だそうですが)。尾野さんの鏡子は上手くいかない夫婦関係への投げやり気味な諦念が常にあって、漱石という人間への愛情はあまり感じられない。史実の鏡子は漱石の死後に「いろんな男の人をみてきたけど、あたしゃお父様が一番いいねぇ」と孫の半藤茉利子さんに語っているけれど、尾野さんの鏡子は後年そういうことを言いそうには全く見えない。今生では漱石と添い遂げる決意をしているけれど、次の生で選択肢があるなら違う結婚を選びそう。鏡子がこうなってしまうと、なんだかんだいって史実の鏡子&漱石にはあったように感じられる夫婦の安定感が皆無になってしまい、ラストの長野旅行(だっけ?)の仲良し場面もおさまり悪く感じられてしまった。まあ漱石の「あたまの調子が悪いとき」に焦点を当てすぎている脚本のせいも大きいと思いますが。
一方、鏡子の父親役の舘ひろしさんと漱石の養父役の竹中直人さんは悪くはなかった気がする。主役二人と同様に『道草』や『漱石の思い出』に書かれているイメージとは違ったし、「あなたそんな性格だったっけ?」展開もなきにしもあらずだったけど、主役じゃないせいもあり、さほど違和感なく見られました。
第二話の相場に手を出して身動きがとれなくなった鏡子の父親(舘ひろしさん)が、保証人の判をついてくれるよう鏡子から漱石に頼んでほしいと借金の借用書を持ってくる場面は、見ていて辛かったな。貴族院の書記官長にまでなった人なのに今は落ちぶれて愛する娘にこんなことを頼まざるを得ない父も、それを断るしかない娘も、辛いよね。翌日、漱石が鏡子の弟に四百円を包んで渡してあげる場面に救われました。まあ史実ではこの父親はお妾さんもいて、鏡子のお母さんも苦労されたそうですが。
漱石の養父役の竹中直人さんも、いやらしさ加減、下劣さ加減がよかった。鏡子に言う「わかりますか、落ちぶれるということの忌々しさが…」。お金があれば持てたかもしれない他人への優しさ、立派な人格、人としての誇り。それらを全て捨てねば今日を生きられない人間達の惨めさというのは、現実の一面としてきっとある。
引っ越し時のネコの運搬係な鈴木三重吉くん、ちゃんと再現してくれていましたね
漱石の娘たちが髪に大きなリボンをつけていたのも、史実に忠実。漱石自身も身なりを気にするお洒落な人で、美しいものが好きな人でした。
挿入曲は、シューベルトのピアノソナタ21番の第一楽章。
最初は合っているような合っていないような?微妙な選曲に感じられたけど、観終わった今は、合っていたような気がします。無垢で絶えず死のイメージが付き纏う、でも決して暗いだけではない光のソナタ。シューベルトらしい明るい中に不意に現れる不穏な低音も、ストーリーによく合っていた。
ドラマの原作の『漱石の思い出』は以前読んだことがあって、今回再び読み返しながら、悪妻の評判が高い鏡子だけど、そしてこの本はあくまで鏡子から見た主観的な内容ではあるけれど、漱石のような人には結局は鏡子のような奥さんが合っていたのではないかなと感じるのでした。100%合っているとはいえなくても、では100%合っている夫婦なんてどれだけいるのか?と。独身の私が言うのもなんですが。
ただね、ドラマとは関係ないけど、鏡子さんにこれだけは言いたい・・・。
漱石はあの墓は絶対に不満に感じてると思うよ。「菫ほどな小さき人に生れたし」と言っていた人よ。さりげない上品なお洒落が好きだった人よ。それがあの墓・・・。漱石も子規みたく自分の墓のことを生前に細かく指示しておけばよかったのにねえ(漱石の墓は漱石の死後に鏡子の妹の旦那さんが設計して作りました)。
※負けん気強くて夫思い!夏目漱石の妻・夏目鏡子さんに関する記事まとめ【日めくり漱石 号外編 @サライ】
※日めくり漱石@サライ
※村上春樹さん「もし筆を折ったら」 創作への思い、私生活を語る(2020.3.6)
「夏目漱石を愛する村上さんは、15年の取材時に漱石の旧居を訪れた縁で、被害を受けた旧居復旧のために基金から600万円の提供を決めた。」と(ありがとう村上さん!)。
「好きな作品は『三四郎』と『それから』、嫌いな作品は『こころ』」と。
村上さん、『こころ』お嫌いですよね。ご自身の小説の中でもそう書いていましたし。「完璧すぎるから」でしたっけ?。私はそうは感じないのですけれど。先生の遺書の異様な長さから言っても、完璧すぎるとは感じないなあ。完璧というなら『三四郎』の方が完璧ではなかろうか(私は『三四郎』大好きです)。
健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は殆ど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。
娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。
自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。
・・・
「だけど、ああして書いたものをこっちの手に入れて置くと大変違いますわ」
「安心するかね」
「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」
「まだなかなか片付きゃしないよ」
「どうして」
「片付いたのは上部だけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」
細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。
(夏目漱石 『道草』)
村上さんがフィッツジェラルドの作品について「深い内省はないが、それをはるかに凌駕する鋭い洞察がある」と書いていたことがあったけれど、この表現を借りると、漱石の後期の作品には「深い内省も、鋭い洞察もある」と私は思うのである。「ありすぎる」といってもいいそういう性質を持って生まれてきたことが漱石という人にとって幸福だったかどうかはわからないけれど、それがなければ作家漱石は生まれていなかったであろうことは確かでしょう。
ちなみに何度も書いて恐縮ですが、漱石やフィッツジェラルドやポゴレリッチが好きという部分は私と村上さんは共通しているけれど、私は村上さんの小説は苦手なのである(エッセイは好き)。