風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

夏目漱石 『坑夫』

2014-05-03 11:12:44 | 



当時を思い出すたびに、自分はもっとも順良なまたもっとも励精な人間であったなと云う自信が伴ってくる。兵隊はああでなくっちゃいけないなどと考える事さえある。同時に、もし人間が物の用を無視し得るならば、かねて物の用をも忘れ得るものだと云う事も悟った。――こう書いて見たが、読み直すと何だかむずかしくって解らない。実を云うと、もっとずっとやさしいんだが、短く詰めるものだからこんなにむずかしくなっちまった。例えば酒を飲む権利はないと自信して、酒の徳を、あれどもなきがごとくに見做す事さえできれば、徳利が前に並んでも、酒は飲むものだとさえ気がつかずにいるくらいなところである。御互が泥棒にならずに済むのも、つまりを云えば幼少の時から、人工的にこの種の境界に馴らされているからの事だろう。が一方から云うと、こんな境界は人性の一部分を麻痺さした結果としてでき上るもんだから、図に乗ってきゅきゅ押して行くと、人間がみんな馬鹿になっちまう。まあ泥棒さえしなければ好いとして、その他の精神器械は残らず相応に働く事ができるようにしてやるのが何よりの功徳だと愚考する。自分が当時の自分のままで、のべつに今日まで生きていたならば、いかに順良だって、いかに励精だって、馬鹿に違ない。だれの眼から見たって馬鹿以上の不具(かたわ)だろう。人間であるからは、たまには怒るがいい。反抗するがいい。怒るように、反抗するようにできてるものを、無理に怒らなかったり、反抗しなかったりするのは、自分で自分を馬鹿に教育して嬉しがるんだ。第一身体の毒である。それを迷惑だと云うなら、怒らせないように、反抗させないように、御膳立するが至当じゃないか。




自分はよく人から、君は矛盾の多い男で困る困ると苦情を持ち込まれた事がある。苦情を持ち込まれるたんびに苦い顔をして謝罪(あやま)っていた。自分ながら、どうも困ったもんだ、これじゃ普通の人間として通用しかねる、何とかして改良しなくっちゃ信用を落して路頭に迷うような仕儀になると、ひそかに心配していたが、いろいろの境遇に身を置いて、前に述べた通りの試験をして見ると、改良も何も入ったものじゃない。これが自分の本色なんで、人間らしいところはほかにありゃしない。それから人も試験して見た。ところがやっぱり自分と同じようにできている。苦情を持ち込んでくるものが、みんな苦情を持ち込まれてしかるべき人間なんだからおかしくなる。要するに御腹が減って飯が食いたくなって、御腹が張ると眠くなって、窮して濫して、達して道を行(おこな)って、惚れていっしょになって、愛想が尽きて夫婦別れをするまでの事だから、ことごとく臨機応変の沙汰である。人間の特色はこれよりほかにありゃしない。と、こう感服しているんだから、ちょっと言って見たまでである。

(夏目漱石 『坑夫』)



漱石の自宅を訪れた実在の青年の話をもとに書かれた作品。
そういう意味では漱石作品の中で異色といえるけれど、文章は漱石らしさがいっぱい。

前作『虞美人草』の装飾過多な文体はすっかり成りを潜めたものの、唐突なラストはあいかわらず笑。
けれど前作のような「ムリヤリ収束しました」感は少ないのは、最初からずっと「これは小説ではない」という前提のもとに書かれているからでしょうか。

そして、まるで読者もその場にいるかのように主人公の周りの情景が浮かぶのも、漱石ならでは。
漱石って本当に人間だけでなく周囲の物や光景に対する感覚が鋭いというか、よく観察していますよね。子規とやっていた俳句の影響なのか、元からの性質なのか。

ところでこの少年は結局東京に戻ったわけですが、その後彼はどうしたのでしょう。東京では何も事態は変わっていないわけで。
ただこれは成長物語という類のストーリーでは決してないけれど、それでもこの少年自身は鉱山の五ヶ月間で大きく変わったはずですから、なんとか自身で解決していったのでしょうね。ナレーションの現在の彼はだいぶ図太くなっていますし。
とはいえ当時から結構いい性格してますよね、この少年笑。漱石キャラの中では、虞美人草の甲野さんや彼岸過迄の須永や行人の兄さんやこころの先生のような明らかなデリケート系じゃなく、虞美人草の宗近くんや坊ちゃんの坊ちゃんや吾輩な猫タイプ。でもどちらもやっぱり繊細なんだよね。どちらも、漱石の性格なのだろうな。

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