月夜の浜辺
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
月に向かってそれは抛(はふ)れず
浪に向かってそれは抛(はふ)れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
(中原中也『在りし日の歌』より)
月夜の浜辺に落ちていたひとつのボタン。
他人にとっては何の価値もないものでも、このときの彼には「指先に沁み、心に沁み」、どうしても捨てることができなかった。
美しく透明でどこか悲しいこの詩は、詩集『在りし日の歌』の中の一編です。
詩集の副題は、「亡き児文也の霊に捧ぐ」。
中也はこの前年に愛児を亡くし、そしてこの詩集を清書したひと月後に自身も亡くなりました。30歳でした。