たまりにたまった感想もこれでラスト!がんばった自分!
って、自分用の覚書ですけれど。
【義経千本桜(木の実、小金吾討死、すし屋)】
仁左衛門さんのすし屋を観るのは4回目。
ですけれど過去3回は全て2013年の新開場の年の10月なので(ニザさまが肩の故障でお休みに入られる前の最後の月)、実は10年ぶりなのでした。ということに今気づきました。
あのときの千穐楽は亡くなった友人と同じ舞台を観たのだったな。友人は3階席を買ってあって、私は幕見で。翌日「凄かったね~!一階席で観たかったね~!」とお互いに興奮して感想を話したものでした。
さて、10年ぶりに観た仁左衛門さんのいがみの権太。
「至芸だなぁ」と心の底から感じました。いつも感じるけれど今回も、今回は特に感じた。
芸であることを感じさせない自然さ。でも極上の芸。
そしてこれもいつも書いている気がするけれど、こういうお芝居を今後私はどれくらい観ることができるのだろう、と。
吉右衛門さんが亡くなって、もう二度とあの至芸は観ることはできなくなってしまった。
この世代の役者さん達がいなくなったら、次の世代でいつかこんなお芝居を観ることが果たしてできるのだろうか。
とはいえ今回の舞台を観て、若手が成長したな~~~~とも心底感じました。
最近歌舞伎を観る頻度がすっかり減ってしまっているけれど、そのせいかその成長ぶりに本当に驚いた。
壱太郎のお里ちゃん、よかったなぁ。
壱太郎って都会的な雰囲気が出ちゃいそうと思っていたけど、ちゃんと田舎風で、無邪気で、健気で、面白くて笑、可愛らしくて、とても良いお里ちゃんでした。
今まで強く感じたことがなったのだけど、弥助(錦之助さん)が実は維盛で、奥さん(若葉の内侍:孝太郎さん)と子供(六代の君:種太郎)がいたとわかるところ。舞台に1対3で並ぶところ。もっっっのすごく切ないですね・・・・・・・
お里ちゃんが可哀そうで、観ているのが辛かった。
お里ちゃん、すごくショックを受けてるのに、でも3人を助けてあげようとして。いい子だなぁ・・・・・
錦之助さんの維盛は前回観ていたはず、と思ったら前回は時蔵さんで観ていたのだった。
今回配役表をチェックしていなかったので、維盛の出を観て一瞬「時蔵さん?」と思ったのですよ。すぐに錦之助さんだとわかったけれど、本当によく似ている。さすがご兄弟だなぁ。
弥左衛門の前で立ち姿だけで弥助→維盛に一瞬で変化するところ、時蔵さんも素晴らしかったけれど、錦之助さんも絶品でした。役としてのニンは錦之助さんの方が合ってるように思う。錦之助さんってこういうお役がピッタリ。もう維盛にしか見えない。
歌六さんの弥左衛門、今回は桶の重さの感じさせ方が前回よりもずっと自然になっていました。
千之助君の小金吾も、切なさがあってなかなかよかった。大人になったなぁ。
観にきて本当によかったなと感じると同時に、なんだか仁左衛門さんの一世一代のお芝居を観てしまったような気持ちにもなりました。
吉右衛門さんの最後の俊寛を観たときのことをちょっと思い出してしまった。
そういえば仁左衛門さん、7月は大阪で俊寛をされてるんですよね。
仁左衛門さんの俊寛、一度も観たことがないので観たいな。亡くなった友人も博多まで観に行こうとしていたのを覚えている(結局行っていなかったけれど)。東京で演じてこなかったのは、吉右衛門さんに遠慮されていたから、とかあるのだろうか。。
そして猿之助の事件で6月は昼の部の方が注目されていたけれど(猿之助の代役としての中車と團子君が出ていたから)、この「木の実」「すし屋」は家族の繋がりを描いたお芝居なので、色々感じさせられました。演じている役者さん達もお辛かったのではないかな・・・。また私自身にも照らし合わせ、色々考えさせられました。
【川連法眼館】
松緑のキチュネ
なんとなくまだ慣れていない風だったけれど、初役ではないよね?歌舞伎座では初?
演技としては狐よりも佐藤忠信の方がよかったように感じられたけれど、でも、なんか最後の幕切れの爽快さ、華やかさ、温かさに、すごく感動しちゃったんですよね。。。
歌舞伎っていいなぁ、って心から感じました。
こちらも家族の繋がりの物語ですね(狐の家族だけど)。。。
静御前の魁春さん、久しぶりに拝見できて嬉しかったな。魁春さんの古風で品のある赤姫、いつ見ても良き
そして、改めて『義経千本桜』って仏教の輪廻転生の物語なのだなぁ、と。
「今生の別れ」という言葉、現代でも全く使わないわけではないけれど、今回このお芝居の中で聞いて、そうかこれは「今生」での別れという意味なのだな、と。
今の世では二度と会うことはない。でも次の世(後生)では、あるいはあの世では・・・という意味が裏にあるのだな、と。
当たり前といえば当たり前なのだけど、初めてわかった気がしたのでした。
※仁左衛門が語る、歌舞伎座『義経千本桜』(2023年6月)
上演にあたり大事にしていることを問われると、「家族愛」と、迷うことなく答えます。「勘当されていても、やっぱり父親のことが好き。そして、子どもがかわいくて仕方がない。『木の実』では、子どもとお嫁さんの三人の家庭の温かみをお客様に伝えることで、後の『すし屋』での別れのつらさを、より感じていただけると思う」と、話します。
・・・
江戸と上方とで大きく型が分かれる「すし屋」。「上方でも、河内屋さんと成駒屋さんとで違います。父(十三世仁左衛門)もやっていますが、うちのやり方というのがあるわけではないので、私も私なりにつくっています。大事なのは、丸本物であることを基本にすること。丸本物の丸みを大事にしたいと思っています」。そう話す一方で、型を守っていくことについては、「気持ちを、心を守ることであって、幹がしっかりしていれば、枝はこれからも変わっていっていいと思う。同じ役であってもそれぞれの俳優のつくり方があるから、いろいろな楽しみがある」と、歌舞伎の魅力を語りました。
※吉例顔見世興行 木の実・すし屋「仁左衛門さんのこと、教えます」(2018年12月)
――仁左衛門さんは、大和のごろつきとして演じられるわけですね。
権太はよい家の出で、ごろつきとは違います。悪餓鬼だけれどもやんちゃで可愛い子を関西では権太といいますが、この役は、まさに大人になっても、そういうところから抜け出せない男として私は演じています。
――権太と弥左衛門の関係も微妙ですね。
父親の悪態をつきますが、本当は好きで、父親の窮地を救って自分の勘当も許してもらいたさに、自分の嫁と息子を犠牲にしてしまうんです。でも、あんまり深く掘り下げていくと無茶な話になってしまいます(笑)
――若葉の内侍と六代君に化けた妻子を梶原が引き立てていくのを見送って、ほっとして真相を報告しようとしたところで、権太が弥左衛門に刺されてしまいます。
梶原を見送って、「ああうまくいった、誉めてもらおう」というところでぶすっと刺されてしまう。もうちょっとずれていたら助かったのに、少しの歯車のズレで、人間の運命が大きく変わってしまう。ドラマ性が強調されると思うんです。あれも、初日が開いて何日目からか、自然とそれまでのやり方から変わりました。恐らくあのやり方は、今のところ私だけだと思います。ああ、もうちょっとで命助かったのに、可哀そうに、と感じていただけたらと思います。
・・・
――これまでいろいろなことがおありだったかと存じます。
大病をし、命が助かり、再び舞台に立てるようになったときは、おこがましい言い方ですが、神様が「歌舞伎のために頑張れ」とおっしゃってくださったような気がして。それからは、極力歌舞伎に絞り、父を含めた先輩、父から話を聞いていた先人の芸を、私自身も勉強をしながら、後輩に伝えなければと思っております。
――今、歌舞伎についてはどんな思いをお持ちでしょう。
ただただ歌舞伎が好きという思いでまいりました。舞台に立つ前は嫌だと思った役でも、演じていると好きになってしまいます。その人物になりきらないとお芝居は面白くなりません。人物を演じるのではなく、人物になることが大事だと思います。
商業演劇で、歌舞伎ほど同じ狂言を繰り返し上演する演劇は少ないでしょう。「またこの出し物をやるの」と思われるかもしれませんが、配役が変われば芝居も変わります。その違いも楽しみの要素だと思います。
――これからはどうしていらっしゃりたいですか。
古典物の演技法をなぞるのではなく、掘り下げることで、新しい魅力を掘り起こして、歌舞伎をご存じないお客様に古典のよさを訴えたい。その努力が一番大事です。言い古された表現ですが、死ぬまで修業です。