特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

足跡

2010-03-01 11:41:30 | Weblog
「一月は行く」「二月は逃げる」「三月は去る」
これは、時の移ろいのはやさを表す言葉。
ただ、実際は、どんな場合でも、そのスピードを変えることはない。
同時に、誰に対しても平等。
“時”は、時に優しく、時に厳しい。時に温かく、時に冷たい。不思議なものである。

私の場合、一月はやたらと長く感じた。
ダラダラと過ごしてしまったからだろうか、二月に入って“やっと一月も終わったか”と思ったくらい。
その二月も早々と過ぎ、もう三月。
晴れても曇っても確実に時は過ぎ、泣いても笑っても確実に歳は重なる。

先月、首都圏は二度、大きな雪が降った。
初雪だったのかどうかはわからないけど、二月一日は今季初の積雪があった。
その日は、朝から曇り空。
そして、午後からは冷たい雨が降り出した。
夜のなると、その雨は雪に。
私は、夜更けとともに強さを増す雪に翌日の足元を心配。
“降るのはいいけど、あまり積もらないでほしいなぁ・・・”と、深々と降り続く雪を窓越しにしばらく眺め、そして、冷えた身体を冷たい布団にもぐり込ませた。

明くる二日の朝、外は薄っすらと雪景色。
雪は未明にやんだようで、道路に見えるアスファルトに一安心
私は、素手に雪を取り、顔のないミニ雪だるまをつくった。
そして、一時的に甦った童心が、憂鬱に足を重くする私の背中を押してくれ、私は雪に軽快な足跡をつけながら会社へ向かったのであった。


“あまり積もらないでほしい”
この感覚は、いつからのものだろう。
“たくさん積もってほしい”
子供の頃の私は、そう思っていたはずなのに。

大人が見向きもしないようなことに、子供は、はしゃぐ。
大人が感じ得ないことを、子供は感じる。
大人が気づかないことに気づく感性を持ちながら、大人が知るべきでなかったことには興味を持たない。
世を渡るための技術や知識は大人ほど持たないけど、今を謳歌する知恵は大人より持っている。

決定的に違うのは、笑顔の大きさとその数。
無感情・無表情の大人に対して、子供は、感情も表情も豊か。
腕力は弱くとも、財布の中身は乏しくとも、大人より豊かな何かを持っているのだと思う。
そして、こん自分も、かつてはそうだったはず。
そんな時分が、確かにあったはずなのである。


特掃の依頼が入った。
依頼者は、中年の女性。
亡くなったのは、女性の父親。
故人は、一人暮らしのアパートで自分の腹を刺したのだった。

女性は、現場から遠く離れたところに居住。
それまで一度も現場には行っておらず、遺体を荼毘に付すまでの一切は、現場近くに住む親戚に任せていた。
また、“今後も現場に行く予定はない”とのこと。
それは、故人の縁者として無責任な行動のようにも思われたが、その暗く力ない語り口からは、“行かない”のではなく“行けない”のであることがヒシヒシと伝わってきた。
そして、そんなやりとりの結果、私は、不動産会社から鍵を借りて単独で部屋を見分することに。
女性に、部屋への立ち入りを無条件に了承してもらい、現地調査予定の日時を決めた。

現地調査の日。
着いたところは、あちこちの旧市街にありそうな古い木造アパート。
そこの、陽の当たらなそうな一階に、目的の玄関はあった。
私は、手袋をはめた手でドアをノック。
返事がないことを確認して後、鍵を鍵穴に挿入した。

玄関ドアを開けると、その先は薄暗い台所。
その床は、全体的に黒色。
一歩入って蛍光灯をつけると、その黒ズミはわずかに赤味を帯び・・・
それは単なる生活汚れではなく血・・・
それが、独特の異臭をともなって床一面に広がっていた。

よく見ると、血痕は、濃淡のある鱗模様。
更によく見ると、“鱗”一つ一つは足のかたち。
その黒赤は、自然に広がったものではなく、作為的に広げられたものであることは明らか・・・
故人は、流れ出る血を部屋中に染み付けながら徘徊したようであった。

自分で自分の腹を刺し、血を流しながら部屋を歩き回る・・・
その様を思い浮かべると、とても正気の沙汰には思えず・・・
故人は、何かを訴えようとしていたのか・・・
何かを残そうとしていたのか・・・
思慮の足りない私には、到底、その足跡を読むことはできず、ただ正気を失った故人を想像することしかできず・・・
私は、溜息も吐けないほどの息苦しさに顔を歪ませて立ち尽くすのみだった。

血痕は、あまりに広範囲。
木部には、しっかり浸透。
しかも、故人の生死がリアルに感じられる足跡。
そんな部屋の清掃作業が、困難を極めたことは言うまでもない。
また、その精神労働が、重いものなったことも言うまでもない。
それでも、できる限りのことはやらなければならない。
私は、力の入らない身体を引きずって作業に従事。
一つ一つの血足跡を消しながら、そこに至った故人の人生と、その場に至った自分の人生に想いを廻らせた。

血の足跡を残して逝った故人に対し、その足跡を消す役回りとなった自分。
その出逢いの妙と接点もまた、私の人生に残る足跡。
故人が意図したことではないにしろ、命がけで教えてくれることが私の人生に足跡となって残る。
そして、その足跡に自分自身の足跡を重ねて、次に踏み出すべき一歩を定めていくのである。


「汗にまみれ・泥にまみれながら歩く人生に、何の価値がある?」
「涙を流し・血を流しながら這いずる人生に、何の意味がある?」
「冷たい雪の上を歩くような人生に、何故、耐えなければならない?」
人が、また自分が、私に問う。
非力の私には重すぎる、薄識の私には難しすぎる問いだ。

「幸せになることは権利かもしれないけど、生きることは権利ではない」
「生きることは義務であり、人には生きる責任がある」
「価値があるから生きて(生かされて)いる」
「意味があるから生きて(生かされて)いる」
死体業を何年やっていたって、何年考えたって、この程度のことしか言えない。
だから、結局、“個人的な思想哲学・死生観・宗教観”と片付けられてしまうのだろう。
平々凡々と歩いているつもりはないのだが、所詮は、平々凡々と歩いているのか・・・
苦悩する人、また自分を支えられるほどの答が得られていないことに、悔しさを越えた虚しさがある。

ただ、時は過ぎる。
喜びにも悲しみにも、そのはやさを変えることなく・・・
だから、生き急ぐことはない。答を急ぐ必要もない。
たまには立ち止まって、自分が歩いてきた道程を振り返ってみるといい。
とりわけ、子供の頃のことを思い出してみるといい。
すると、冷たい雪の上にも温かい足跡をつけていた自分が甦ってくる。
そして、過去の自分が今の自分に笑顔をくれる・・・今の自分を元気づけてくれる。

そこから、生きるための答は導けないかもしれない。
しかし、生きることのヒントは導くことができると思う。
そして、そんなヒントを拾いながらの歩みは、明日の誰かに・未来の自分に笑顔をもたらす足跡となるのだろうと思っている。





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