11月も下旬、師走が目前に迫っている今日この頃。
朝晩はもちろん、陽によっては日中も寒さが感じられるようになっているが、そんな季節の移ろいをよそに、春だろうが夏だろうが、懐はず~っと寒いまま。
足音聞こえる真冬に忖度しているわけでもないだろうに、温かくなりそうな兆しは一向にない。
少し前、TVの報道番組で観た切ない話。
そこでは、コロナ禍、円安、物価高により、経済的に困窮している人に焦点を当てたコーナーで、何人かの実例が取り上げられていた。
これを観ても明るい気分にならないことはわかりきっていた。
しかし、他人事として片付けられない不安感に駆られて、チャンネルを変えることなく視聴した。
派遣業の20代男性。
仕事がなく、取材時の所持金は百数十円。
働く気があっても 自分に回ってくる仕事はわずか。
少し前まではネットカフェで寝泊りできていたものの、金がなくなり路上生活に。
何度か役所に生活保護の相談に行ったが、「若いから」「住居がないから」と門前払いになっていた。
零細企業経営の50代男性。
コロナ禍で売上が激減。
それでも、「コロナが過ぎれば復活できる」と希望を持ち続け、事業を継続。
しかし、コロナは一向に収束せず、それに物価高と円安が追い討ちをかけ、経営は更に悪化。
ほとんどの社員を解雇しても赤字は解消せず。
貯えも底をつき、本業以外のアルバイトで何とか生活を維持していた。
ホームレスの50代男性。
支援団体のサポートにより、雑誌を路上販売しながら生活。
しかし、日々の収入の波が激しく、一日の収入は数百円から数千円。
路上生活から脱出するには程遠い金額で、食事がとれないこともしばしば。
おまけに、行政により住み慣れた公園からも追い出され、新しいネグラを探すしかない境遇だった。
この類の話を書いていると思い出すことがある。
それは、K県Y市N区K町。
もう、十年以上も前のことになるだろうか、そこで2~3度仕事をしたことがある。
職業紹介所を中心に、ドヤ(簡易宿泊所)、反社っぽい事務所、そして、朝から酒を飲める飲食店等々が密集。
失礼な言い方になるが、ボロい建物が多く、ただの偏見なのだが、悪臭を感じるような全体的に不衛生に思える雑然とした街。
今はわからないが、かつては「日雇労働者の街」と言われ、当時は、「治安が悪い」とされていた。
実際に行ってみると、目的もなさそうにフラフラと歩いている人、昼間から店先で酒を飲んでいる人、路上に屯してタバコをふかしている人、歩道に寝転がっている人があちらこちらに・・・
そこには、「いかにも」といった荒れた光景が広がり、一般市民が近寄り難い不穏な空気があった。
出向く際、街を知る人から、
「警察も取り締まりに来ないから路上駐車しても大丈夫」
「ただ、“当り屋”がいるから車の運転には気をつけろ」
と言われ、そのエリアでは、慎重に前後左右の安全確認を行いながら最徐行。
また、
「車の外から見えるところにバッグとか置くな」
「食べ物もガラスを割られて盗まれる」
と言われ、外から見える座席には何も置かず。
しかし、そのように気をつけていたにも関わらず、ほんのちょっと目を離した隙に、私は、車の陰に置いておいた工具箱を盗まれてしまい、自分の甘さを痛感させられた。
多くの庶民が貧しくなっている現実は、私が長々と書き連ねるまでもないこと。
この30年、日本人の賃金が上がっていないことは、誰もが知る通り。
反面、物価や社会保険料・税金が上がっているのだから、実質賃金は低下。
「一億総中流」と言われていた時代は過去の夢物語。
日本の貧困層は拡大するばかり。
かつての中間層は貧困層に転落し、一部の富裕層だけが豊かさを独占。
とはいえ、今では、その富裕層さえ、世界的にみると増加数は著しく少ないそう。
年のせいもあり、最近、年金について興味を持つようになってきたのだが、年金制度も然り。
保険料は上昇、支給額は減少、納付期間は延長、受給開始時期は平均寿命に近づく一方。
それでも、老後の生活を年金だけで維持できるのは一部の人。
多くの人は、年金だけではやっていけず、極端な節約生活をするか、働いて副収入を得るか、どちらかしないと生きていけない。
まさに「死ぬまで働け!」「働けないなら死ね!」と言われているのと同じこと。
なんと心細いことか・・・
私が、俗にいう「負け組」だからそう感じるのかもしれないけど、ここまでくると、夢も希望も持てず「あまり長生きしない方がいいのでは・・・」と思ってしまう。
国民一人一人の苦境もさることながら、日本の行く末にも暗雲が垂れ込めている。
「販売力」だけでなく「購買力」も含め、国際競争力は低下の一途をたどっているよう。
「先進国」と言われる我が国より新興国の方に勢いを感じるニュースも多々。
低所得とデフレと円安により、外国からみても日本は「安い国」になっているし、「小国」になりつつあるという。
ひと昔前、日本人が海外で爆買いしていた時代があったのに、今やそれが逆転。
観光や一般消費に外国人が金を使うのは大歓迎なのだが、不動産・企業・人材・利権など、あまり買われたくないものまで買い漁られている。
海外からの「出稼ぎ」も同様。
出稼ぎ先としての魅力は低下するばかりで、今や、日本人が海外に出稼ぎに行くような事態になっている。
ただ、表立ってニュースになるのは、ほんの一例、見えている問題は氷山の一角。
苦境に喘いでいる人は、陽の当たらないところにもっとたくさんいるはず。
資本主義・競争主義のわが国では、「自己責任」が大前提となるのだろうが、そこには、それだけでは片付けられない悲しみがある。
それは、皆、「仕事がほしい」「働きたい」と思っているからだ。
怠け者やズルい人間が貧乏をするのは、まぁ、仕方がないと思う。
しかし、そうでない人間が人並の暮らしができないなんて、どういうことなのだろうか。
働きたくないわけでも怠けたいわけでもないのに・・・ただ、「生まれてきた時代が悪かった」「生まれてきた国が悪かった」と思うしかないのだろうか。
そうは言っても、何もかも社会のせい、他人のせいにしていても仕方がない。
この時代をサバイバルしていくしかない。
となると、まずは、自分や家族を守ることが第一。
金にも心にも他人のことを思いやるような余裕はないため、どうしても、他人のことは二の次・三の次。
「自分さえよければそれでいい」とまでは言わないけど、この現実を前には、薄情にならなければ生き延びられなかったりもする。
人として心の貧しい状態に陥るわけだが、生き残るためにはやむを得ないのか。
経済的に豊かでなくなる分、心や生き方が豊かになればいいのだけど、人間は、長い歴史の中で、生き方や心の豊かさを物理的・経済的な豊かさに委ねるように。
残念ながら、経済的な貧困が心を貧しくさせる方程式は、ごく一部の人を除いて普遍の原理となっている。
そして、この感性や価値観を変えるのは至難の業。
この“豊かなような貧しさ”は、その時々でせめぎ合いながら、これからも我々を葛藤させるのだろう。
頼まれた仕事は、ゴミの片づけと清掃。
依頼者は、マンションの管理会社からその片づけを依頼された清掃業者。
管理会社の事業規模は大きく、何棟ものビルやマンションを管理。
多くの外注先や下請会社を抱えており、この清掃業者のその一社。
この清掃業者は、当管理会社とは古くから取引関係にあり、多くの物件で仕事を受注。
となると、立場的に、「できません」「やりたくありません」とは言えず。
そうは言っても、特殊清掃業者ではないため、あまりの汚さに自社でやること躊躇。
どこか、丸投げできる業者を探している中で、当社にたどり着いたようだった。
清掃会社がそういう社風なのか、担当者個人の性質なのか、この担当者は、感じのいい人物ではなかった。
取引実績もないのに客ヅラ。
物言いも上から目線で、会ったこともないのにタメ口。
こちらが仕事欲しさにヘコヘコするとでも思っているのか、とても、人に頼みごとをするような態度ではなく、私の中には嫌悪感が沸々。
しかし、あくまで一仕事上の一時的な関り。
いちいち引っ掛かっていては、世の中は渡っていけない。
とりあえず、現地調査の依頼はおとなしく引き受け、初回の電話を終えた。
訪れた現場は、マンション敷地内の一角。
外の道路とは大人の背丈より少し高いくらいの金網で隔てられており、普段は、人が立ち入らないような裏地。
そこに、大量のゴミが堆積。
おそらく、始めは、ゴミ出しルールを守らないマンションの住人が隠れて捨てたのだろう。
それから、少しずつゴミは増えていき・・・
そのうちに、ゴミがゴミを呼ぶかたちで、通行人も、道路から金網越しに投げ込みだし・・・
雨風にさらされたゴミは月日とともに腐食し・・・
腐敗した食品も見え隠れする中、害虫や異臭が発生し、ドブネズミの巣となり・・・
ゴミの内容を確認するため、私が少しのゴミを動かすと、「胴体だけでも20cmはあろうか」というくらい巨大なドブネズミが何匹も飛び出してきて、驚いた私は思わず「ウワッツ!」と声を上げ のけ反ってしまった。
現地調査を終えた私は、会社に戻って見積書を作成。
担当者にメールし、併せて、電話をかけ内容を説明。
私は、担当物に対する反抗心もあって、料金も免責事項も強気に設定。
「ご注文は、料金と作業内容に充分納得してからお願いします」
「後々、トラブルになっては困るので」
と、礼儀に反しないように気をつけながらも、あえて“お仕事くださいモード”の平身低頭な態度はとらなかった。
対する担当者は、
「この値段じゃ、よそにお願いするしかないかな・・・」
「値段によっては、今後も、引き続き、おたくに仕事を出せるんだけどね・・・」
と、思わせぶりなことを言って駆け引き。
しかし、担当者に業者を選ぶ権利があるのと同じで、こっちにも客を選ぶ権利はある。
“良縁”は大歓迎だけど“腐れ縁”はご免。
実際、こういった業者が“お得意様”になったためしはない。
私は、ある程度の値引きに応じる余力はあったものの、
「“足元を見やがって”って思われるかもしれませんけど、あの状態ですからね・・・」
「特別な技術が必要なわけじゃないので、やろうと思えばご自分達でもできるはずですよ」と、ちょっと意地悪な言い方で譲歩せず。
その後のことは成り行きに任せることにして、値引きには一切応じず電話を終えた。
その後、数日して担当者から再び連絡が入った。
「他に業者が見つからなかったから」とは言わなかったが、おそらく、他にやってくれる業者がみつからなかったのか、当社より料金が高かったかのどちらかだろう、“渋々”といった感じで、当該業務を当社へ発注。
一方、私は、表向きは快く受諾。
ただ、腹の中では警戒をゆるめず。
作業後に難癖をつけられないよう、念を押すように免責条項を説明。
具体的な作業計画は契約書を取り交わしてから立てることを了承してもらい、できるだけ早急に対応することを約束した。
作業の難易度は想定内。
掘り出されて膨らんだゴミ・ガラクタの量も、ほぼ想定内。
しかし、陶器・ガラスやスプレー缶、電球・電池や刃物など、危険物は想定以上。
また、その不衛生さも想定以上。
ゴミ山は全体的にドブネズミの巣と化しており、あらゆるものをかじり砕き、大量の糞が混在。
ネズミは食料を持ち込んでくるだろうし、死んでしまえば死骸となって腐る。
ともなって、異臭や害虫も発生。
これもウジの一種なのだろうか、いつもの現場で遭遇するウジに比べると大型のイモ虫も大量に発生。
とにもかくにも、どこから飛び出してくるかわからないネズミを警戒しながら、鋭利なものでケガをしないよう注意しながら、それらを少しずつ始末していった。
作業が終わる頃、担当者も現地へ。
作業前に比べるとはるかにきれいになったのだが、それでも、
「こんなもんか・・・」
「これが限界?」
と、鼻で笑うかのごとく不満げにコメント。
労苦した作業の達成感もあって、
“ここまでやれば充分だろう”
“満足してもらえるだろう”
と自画自賛していた私にとって、それは非常に腹立たしい反応。
そんな私の腹が読めたのか、担当者は、もっと何か言いたげにしたが、事前に、免責事項を念入りに設けていたおかげで、それ以上のことは言わず。
私は、口から出かかった反論を呑み込み、“コイツとは二度と仕事したくないわ!”と思いながら、
「作業は、これで完了とさせていただきます」
「近日中に請求書をお送りしますので、よろしくお願いします」
と、一方的に話を締め、後ろ足で砂を蹴るようにして現場を後にした。
私もその一人だが、社会には色々なタイプの人がいる。
“良し悪し”は別として、合う人 合わない人がいるのも自然なこと。
担当者に悪意はなく、会社や上司からそう命じられていたのかもしれない。
一仕事として、自分の職責をまっとうしようとしていただけのことかもしれない。
私だって、公私を分けて生活している。
担当者のことを一方的にどうこう言えないようなところもある。
そうは言っても、不快感や憤りとは別のところにある、人間としての妙な貧しさを覚えてしまった。
経済力を頼りに、得ること、獲ることによって生まれる豊かさはある。
しかし、ある意味、欲は無限。
満足しないことで生まれる貧しさに気づかず、ひたすら追い求めてしまう。
私のような人間の価値観や志向はこれ。
一方、分けること、与えることによって生まれる豊かさもある。
他人の生き方や豊かな表情をみると、何となく、それを感じることがある。
ただ、残念ながら、これは、私のような人間には適わない、夢のようなもの。
「どうしたら、豊かな心が持てるのだろうか・・・」
「どうしたら、豊かな人間になれるのだろうか・・・」
「どうしたら、豊かな人生を送れるのだろうか・・・」
暮らしぶりも、外見も、内面も、どこからどう見ても貧しい人間であることの自覚がある中で、真に豊かなものに価値が感じられず、真に豊かな方へ志が向かず、心を痩せ細らせているのである。