特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

ゼイゼイ

2015-10-09 16:09:59 | 社会保障
近年、症状がでることは稀だが、私は喘息もち。
発症したのは20代の半ば。
この仕事を始めて一年にもならない、ちょうど今頃の時季(秋)だった。

ある日の夜、何の前ぶれもなく、急に咳がではじめた。
それは次第にひどくなり、同時に、呼吸が困難に。
徐々に気管が細くなり、肺に力を入れて意識的に呼吸しないと、満足に息ができないくらいになった。

それからというもの、私は、毎日のように夜になると咳と呼吸困難を発症。
そんな夜が何日か続き、苦しさは日に日に増し、さすがの“病院嫌い”も降参。
当時は(今も?)、休みなんてほとんどとれない状況で、仕事の合間をみて会社近くの病院に行ったのだった。

そこでだされた診断は「喘息」。
ただ、一口に「喘息」といっても原因は色々あるらしく、とりあえずアレルギー検査。
しかし、極端に反応するアレルギー物質は発見できず、原因をつきとめることはできなかった。

しかし、素人判断だけど、何となく自分では原因がわかっていた。
それは、精神的ストレス。
当時の私は、仕事のプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。

私は、この仕事を始めて間もない駆け出しで、まだ、素人に毛がはえた程度の知識と技術しか持ち合わせていなかった。
しかも、社会経験も人生経験も浅い若造。
そんな私に任された(押し付けられた?)のは、本来ならベテランでないと担えないような役割と仕事だった。

そんな仕事環境にあって、私は、なかなか上から期待されているような成果をだすことができず。
更には、周囲の“大人達”は私に冷ややか。
そんな日が続き、次第に精神はまいっていった。

そうして、私は、会社都合の理不尽な辛酸を舐めていた。
それでも、「辞めてしまおう」とは思わなかった。
動機は不純ながら、紆余曲折を経て、やっとありついた仕事だったから。

処方された気管拡張剤(小さなガス缶)は抜群に効き、私を呼吸困難の恐怖から開放してくれた。
それを吸えば、収縮した気管が一気に広がり、瞬時に呼吸が楽になった。
それからというもの、私は、御守のように常にこれを携行し、ことあるごとにそれを使った。

そんな体調でも仕事は休めず、夜だけだった発作は、そのうち昼間にもでるように。
現場作業中に苦しくなり、使用したことも何度もあった。
ただ、そんな状況では効きが悪く、ゼイゼイしながら作業することもしばしばあった。

喘息という病気は、決してあなどれない。
重症化すると死に至ることもある。
つい先日も、別事業部の同僚が処置した遺体に、喘息で亡くなった30代の女性がいた。

発症から20年以上が経ち、今は完治したかと思うくらい発作はなくなった。
しかし、忘れた頃に発作は起きてしまう。
特に、秋~冬は発作が起こる確率が高く、要注意である。


ある日の朝、とある役所から電話が入った。
生活保護の受給者がマンションの一室で孤独死したとのこと。
それで、部屋の始末をつけるための見積がほしいとのことだった。

現場は、街中に建つマンション。
築年数は比較的浅く、なかなかオシャレな造り。
また、そこは駅やコンビニ・スーパーも近く、生活の便がよさそうなエリアだった。

生活保護受給者はボロアパートに暮しているといったイメージが強いかもしれないが、実情は違う。
ボロアパートに暮している人もいるけど、きれいなマンションやアパートに暮している人も珍しくない。
羨ましく思えるくらいの立地と部屋に住んでいるケースも普通にあるのだ。

故人宅の間取りは広めの1K。
一人で暮らすには充分の広さで、ベランダからの明りも景色も充分。
ただ、せっかくのいい部屋も、整理清掃ができておらず、無残なゴミ部屋と化していた。

部屋には、生活ゴミが散乱。
「山積み」というほどではなかったが、結構ヒドイ有様。
中には、大量の雑誌、酒の空缶、タバコの吸殻、記入前のギャンブル券もあった。

故人は、生前、酒を飲み、タバコを吸い、ギャンブルを楽しんでいたよう。
しかし、故人は生活保護の受給者。
私の内には、不満にも似た疑問が沸々と沸いてきた。

言わずと知れたこと、生活保護費の原資は税金。
「ワーキングプア」という言葉があるように、正直に働いたって、ギャンブルはもちろん、酒やタバコをやれない人はたくさんいる。
そんな人達を含めた多くの庶民がゼイゼイしながら働き、倹約生活をしてひねり出した税金で賄われている。

もちろん、一方的な想像でしかない。
また、故人が、どういう経緯で生活保護を受給するようになったのか知る由もない。
それでも、私のモヤモヤは、故人を非難する気持ちに変わっていった。

我が国は、先進的な社会福祉国家とされている。
そして、法律上、「健康で文化的な最低限度の生活を送る権利がある」とされている。
事実、そんな国家にあって、多くの人がそれ以上の生活を送ることができている。

では、倫理上はどうか。
生活保護費は、制度の本旨として、使途を問わず支給されているのではないはず。
血税は、最低限度の生活を保護するために納められているもののはず。

しかし、現実には、そう思えないようなケースが見受けられる。
人権やプライバシー保護を重視する時代にあって、その細かい使途について行政がいちいちチェックできないのもわかる。
が、倹約生活を余儀なくされている一納税者としては、この事態を大らかに受け入れることはできない。

生活保護費の不正受給数は「ほんのわずか」とのこと。
それが実数なのかどうかは計りようがないけど、そもそも「少数ならOK」と流せる類のことではない。
また、不正受給かどうかの判断基準自体もかなりいい加減なもののように思えて疑問が残る。

反面、世間体や自尊心が引っかかって申請できないでいる人もいるだろう。
また、良心の呵責と罪悪感で申請できないでいる人もいるだろう。
しかし、実は、そういう類の人にこそ、真の意味で保護されるべき人が多くいるような気がする。

法(税法・年金保険法等)を守らない者が法(生活保護法)に守られる矛盾。
教育の義務・労働の義務・納税の義務等々、国民の義務を履行しない者が権利を主張する矛盾。
国民年金より生活保護費のほうが多い矛盾。

「コツコツと掛けてきた国民年金より生活保護費のほうが多いなんておかしい!」
「コツコツと汗してきた者よりデタラメをやってきた者のほうが手厚い保護を受けるなんておかしい!」
そんな声がでてくるのもうなずける。

弱者救済に異論と唱えるつもりはない。
共生社会において弱者を救済する制度は必要。
しかし、本当に保護が必要な人が保護されず、保護が必要ない者が保護されるというおかしなことが横行しているような気がしてならない。

弱者の皮を被った怠者を救済する必要はないと思う。
働けない理由をかき集めて働きたくない怠け心を覆い隠している者を行政は見極める必要があると思う。
制度を悪用している者を社会は見逃してはならないと思う。

こんなこと声高に言うと非難の的にされるかもしれないけど、そう思う。
人を悪く言うことは自分を下げるだけかもしれないけど、そう思う。
たまたま、自分が社会的弱者に陥っていないから言えることかもしれないけど、そう思う。


2017年4月から、消費税が10%に上がるらしい。
負担する側からするとキツいものだが、私は、「増税反対」というより、「税金は、大切に、有効に使ってほしい」「無駄遣いしないでほしい」という気持ちのほうが強い。
それが、国のため、社会ため、そして自分達のためだと思うから。

もちろん、皆が、増税分、収入が増えるわけではない。
ということは、その分の出費を削らなければ従来どおりの家計は成り立たない。
生活は更に質素倹約を求められ、家計には不景気風が吹きはじめるだろうけど、それが社会にまで吹いてほしくないと願うばかり。

納税の義務を果たすのは、一国民として当然のことだけど、決して楽なことではない。
ただ、働けることは幸せなことである。
そして、納税を通じて国や社会の役に立てていることもまた幸せなことである。

働けない人のことはもちろん、働かない者のことを羨ましく思うことはない。
ただ、社会にも、誰にも迷惑や負担をかけないのなら、働かなくていい生活をしてみたい。
社会的弱者ではないながら人間的弱者である私は、生活も人間性も堕落させる可能性が大きいけど。

ま、これは夢のまた夢。
働かなくて生活していくことなんて不可能。
で、労働は、何の取り柄もない私が生きていくうえでの最大の武器。

だったら、ゼイゼイしながらでも、いつまでも働き続けたい。
そして、そこで得た報酬で、質素ながらも正々堂々と生きていきたい。
陽があたらず曇りがちな自分の人生を、懸命に生きることでうまれる輝きで照らすために。


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