団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

応援歌

2008年03月06日 | Weblog
 昭和22年生まれの団塊の世代と言われる私の高校の同級生が次々に定年退職し始めた。

 先日N君からメールが入った。N君は私立大学の教授である。大学教授は普通定年が65歳と恵まれている。そのN君が今度その大学付属の中高の校長になるという。N君の活躍を心から願う。今後の日本はこれからの教育いかんによって決まるだろう。その重責の一端を、N君持ち前の教育者としての天性を多いに生かしてあばれ回って欲しい。 

 私がカナダへ留学するまで日本では、長野県の上田高校に在学していた。当時の校長は清水次郎先生だった。あだ名は“次郎長親分” 背は低かったがあだ名に負けない熱血校長だった。全校集会で騒ぐ生徒達をいきなり壇上にかけ上がり、一喝して黙らせた迫力は、まさに次郎長そのものだった。私はカナダ大使館から正式な留学ビザが交付された時、次郎長校長から呼び出されて、校長室で約一時間訓示をいただいた。日本の校長という役職は、ほとんどが象徴的存在で、生徒からは接点のない雲の上の人だと思う。積極的に自ら生徒と関わった次郎長校長は異色であった。この次郎長先生からいただいた訓辞は今でもしっかり覚えている。それは日本人として自覚を私に強く植え付け、カナダでの私のがんばりの素となった。 

 カナダに行き、校長という役職が決して象徴的存在でなくて、教師として頂点に立つ者の地位だと知らされた。校長はアーサー・フリーマンで社会科を教えた。授業数も教師の中では、一番多く持っていた。年齢は50歳ぐらいであった。このフリーマン校長は、全校生徒と1対1で一年に二回面談を行った。私は過度に緊張したが、フリーマン校長の教育者としての熱い想いに毎回感動した。全校生徒120名という小さな学校ではあったが、フリーマン校長の存在感は相当なものだった。多くの国々から生徒を集めていた。問題、特に男女関係が多く、途中で退学させられた生徒も多かった。厳しい校長であったけれど、軸足がしっかりしていて信念をまげない校長の姿勢は、生徒から絶大な信頼を得ていた。 

 二人の校長に共通するのは、その地位に甘んずることなく、生徒の目線に降りてくる勇気を持っていたことだ。N君に期待したい。型にはまったスゴロクのアガリとしての地位でなく、N君の人柄、実績、知性をフルに動員して、型破りな教育を実践してもらいたい。N君を校長に抜擢した学校側の判断に、その選別能力の高さに、N君をよく知る者として賞賛を贈る。

 N君ならきっと何か、しでかしてくれると思う。N君のおかげで久しぶりに、次郎長校長とフリーマン校長を思い出すことができた。良き教師は、どれほど生徒に影響を与えるか、身を持って体験できた私の学生時代の喜びが甦った。N君の学校の生徒の多くが、私と同じ経験を持てるよう、祈ってやまない。
 遠い昔、教師になることを望んでいて、それを実現できなかった私の夢をN君に託し、静かに見守りたい。

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