団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

側溝

2008年03月03日 | Weblog
 散歩中に3人の大人が道路に膝まづいて側溝のふたを上げようとしているのを見た。2人のおじさんと1人のおばさんだった。おじさんが「なんでこんな所へわざわざタバコの吸殻をいれやがる」とはき捨てるように言う。おばさんが「捨てるんなら、道に捨ててくれれば掃除もできるのにね」とあきれ果てている。もう1人のおじさんが「馬鹿はどこまでも馬鹿だ。そんなことさえもわからねえ」と言う。隣近所総出の大掃除である。私はなるべくゆっくり歩いて彼らの話に耳を傾けた。

「日本人のマナーは悪いって言うが、大人がこんなことしてちゃいけねえな」「最近の年寄りは私でも恥ずかしく思うようなマナーが悪いのが増えたよね~」「それにしてもこのふたは重いな」「こんな重いふたを盗んで売る悪もいるんだってね」「見なよ。この吸殻」「一度でもこうやって掃除してみろってえんだ」「この間大船駅のホームの下の空洞が空き缶やペットボトルでそりゃすげかったが、ここも同じようなもんだな」ちゃんと判っている人たちもいるのだと、私は嬉しくなった。日ごろ私が感じていることを、おじさん、おばさんが代弁してくれた。 

 ゴミのポイ捨て、車からのゴミの投げ捨てには、ゴミ片づけの奉仕活動を罰としてさせるシステムができたら良い。自分で掃除片付けてみて、きっと初めてそれがいかに大変なことなのかわかる。実体験はよい教育だ。家庭でしつけを受けることができないのなら、社会奉仕で学ぶしかない。 

 27年前の“ロス疑惑”が再び蒸し返されている。事件そのものには、関心がない。ただ27年前のロスアンジェルスの犯行現場が何回も繰り返し放映されるのを見て、汚いところだなと思った。あれほど汚いところはよほどの人の近づかないところなのだろう。

 それにしても世界のゴミの問題は、ますます深刻化している。今まで私が住んで、どこもかしこもきれいな国はなかった。日本はすこしマシだとは思う。それでもがっかりすることは多い。だからきれいな所を見ると安らぎを感じる。京都の龍安寺の石庭のようなゴミひとつ落ちていない完璧さは求めないが、せめて、自然の中に人間の生活臭のするものを放置しない心がけを持ちたい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする