団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

キジ・雉

2021年10月11日 | Weblog

  今から50数年前、カナダの高校に留学する前、軽井沢のアメリカ人宣教師の子供達のための学校に入ることになった。私のカナダ留学の保証人として、留学のための全ての手続きを支援してくれたのはネルソン夫妻だった。夫妻は、旦那さんがアメリカのATT(アメリカの電話会社)を退職して、世界一周の船旅の途中、日本で1年間、軽井沢の宣教師の手伝いをした。上田市で高校生のための英会話と聖書を教えた。私はその教室に通っていた。何度か軽井沢の家に招いてもらった。世界一周の船旅に戻る前、カナダにある全寮制の高校への留学を勧められた。そしてその準備のために軽井沢の宣教師の子供のための学校で学ぶよう手配をしてくれた。ネルソン夫妻が日本を去ってから、宣教師の子供の学校があった聖書学院の院長は、最初の話と違って宣教師の子供の学校で英語を学ぶことより、私をまるで聖書学院の院生であるかのように扱い始めた。院生と言っても私の他に7名しかいなかった。彼らは皆、作業員のようだった。聖書の勉強より、アメリカ人院長の一家のための下男下女のようで勉強より奉仕作業の毎日だった。

 

 私は寮と呼ばれる建物に入った。真冬でも暖房がなく、煎餅布団で寝た。食事は最悪で、ご飯と具のない味噌汁、大根とイカの皮の煮物というようなものだった。お昼は決まって乾麺のウドンだった。夜になると寒さと空腹にさいなまれた。逃げ出すことも考えた。そんな時、シンシンと冷える軽井沢の夜に「ケーッケケーッ」と鳴き声が響いた。一緒の部屋だった福島県の相馬市から来ていたSさんが「キジの肉は美味いぞー」と言った。

 キジの肉と聞いて、私は祖母のことを思い出した。祖母と同居していた叔父は、狩猟を趣味にしていた。キジを獲ってくると、祖母は必ず手打ちうどんを作って私を呼んでくれた。キジのガラで出汁をとり、肉を細かく切って入れた。美味かった。滅多に肉など食べられなかった時代である。家でも鶏肉など買えず、いつもガラを買っていた。軽井沢にはキジがたくさんいるらしい。

 

 Sさんと次の日からキジを捕まえようと計画を立てた。Sさんも聖書学院の食事に不満を持っていた。何とかキジを捕まえて、具のない乾麺に、キジ肉をと知恵を絞った。Sさんがザルと長いヒモを用意した。ザルの下にニワトリのエサを置き、ザルに結んだヒモを寮の階段の下に隠れて握った。キジが来た。ザルと下に入って、ニワトリのエサをつつき始めた。「今だ!」とSさんがヒモを引く。キジは素早く「ケケケッケン」と逃げた。キジ肉の入った乾麺を夢見て、二人は数週間キジを捕えようと努力した。結局一羽も捕らえられなかった。その後もずっと乾麺には具がなかった。

 

 テレビで九州の鹿児島県でキジの養殖に成功したという番組を観た。懐かしさ全開。祖母のキジ肉入りの手打ちうどん、軽井沢で会ったSさんのこと、聖書学院の食堂で出たイカの皮と大根の煮物、具の入っていない乾麺。ネットで調べるとその養殖に成功した農場で通信販売をしていた。さっそく注文してみた。

 立派な木箱に、キジ肉1羽分が入っていた。ガラもあった。ガラで出汁をとった。祖母の手打ちうどんに似た幅の広いうどんをスーパーで買った。妻はキジの肉を食べたことがない。でもうどんは好き。まったく違う家に育ってきた二人。私の話に、不思議そうな顔をして耳を傾ける妻。

 

 10月10日は結婚記念日。そんな二人が30年一緒に生きてきた。これからも妻の知らない私の過去をたくさん話してあげようと思う。

 

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