ハワイ大学のハミルトン図書館からホテルに午後2時すぎに戻った。すでに部屋の掃除も終っていると思っていた。部屋のドアの前に清掃係の用具や補充備品を乗せた台車がとまっていた。ドアは大きく開いていた。中に入ると四十代くらいのポリネシア系女性が私のベッドのシーツを取り替えていた。「アロハ、すぐ終わります」 背は低いが肉づきが見事な、人なつこそうな笑顔の素敵な女性だった。もう長くこの仕事をしているのだろう。躍動感があり、見ていて気持がいい。「いいですよ。ゆっくりやってください」と言って、私は海側のソファの足乗せ台に腰掛け、彼女の仕事ぶりを眺めた。彼女の笑顔につられて、ホテル従業員しか知らないであろう話を聞いてみようと私の好奇心がうごめき出した。
「7,8月の日本の夏休みで日本人観光客が押し寄せて忙しかったですか?」「ここは一年中いつでも忙しいです。でも日本人が減ってきた感じ」「中国人や韓国人が多いのですか?」テキパキと働く手を休めることなく、きれいな英語で答えてくれる。シーツのシワを両方の手のひらで「シュッシュッ」と消し、シーツをビッシと砂漠の平らな砂のように伸ばしていく。「中国人がものすごい勢いで増えているわね。韓国人はこのホテルにあまり来ないです。聞いた話では、いくつもの韓国系のホテルがあって、韓国人はそっちへ行くみたいです。そのうち中国人もハワイのホテルを買い占めて、中国人御用達ホテルが出てくるでしょう。昔の日本みたいにね」さすがである。きちんと観察して情勢を分析している。
「いろいろな国の客が来るけれど、部屋の使い方に違いありますか?」「あるある。私は日本人の部屋を掃除するのが一番好き。だって何から何まで掃除しなくてもいいくらい元どうりにしてくれてあるんだから」私の目は、無造作に机の上に投げ出された私のカバンに向いた。「でもそうでない日本人も増えている。50歳以上の日本人夫婦の部屋が何と言っても整理整頓されている。そしてチップだってこんな小さくきれいな袋に入れてあって、短い感謝のメッセージが入っている。この仕事していてよかったって思うことがあります」彼女はポケットからチップ用に千代紙で手作りされたぽち袋を出して見せてくれた。そして「チップをありがとう」と付け加えた。
彼女は約40の部屋を担当しているという。満室ならチップは、一部屋で1ドルなら一日合計40ドル(約3200円)、2ドルなら80ドル(約6400円)となる。どうせ大ホテルチェーンのことだ。給料は安く押さえているから、従業員はチップが大きな収入になるだろう。今回の私のように直接顔を合わせて、仕事ぶりや結果でチップの額が決まるわけではない。それでも仕事をする上での張り合いになっていることは確かである。私は日本にもチップ制度が普及してほしいと願っている。チップの必要もない政治屋、官僚、企業担当者だけが巨額なお手盛りチップの争奪戦を繰り広げる。若者たちの存在は、ほとんど無視されている。彼らの仕事振り、その出来具合に対して小額であれ、彼らの労働による恩恵を受けた者が応援できる体勢作りが急がれる。素直な感謝は、人の気持を鼓舞させる。
ぽち袋を持ってこなかった私は、翌日、久しぶりにホテル備え付けの便箋に英語で手書きしてチップを包み、枕の上に置いた。