海の近くに住む。獲れてから数時間のさかなを食べることができる。生まれ育った長野県で食べたこともない美しい新鮮なイワシを食べる幸せがある。子どもの頃、イワシといえば、長野では丸干しやメザシだった。
行きつけの魚屋へは、朝9時ごろ顔を出す。市場から持ち込まれた魚を並べ始める時間を見計らう。日によって、季節によって、天候によっても獲れる魚が違う。週3回は、顔をだす。自分で魚を獲ることも釣ることもできない。買うことしかできない。だから徹底していい魚を選ぼうとする。最近、イワシは大衆魚でなくなったようだ。
平日、つまり妻の出勤日は、お昼ご飯は、私ひとりの孤食である。糖尿病対策もあって、食事はできるだけ外食を避けている。毎日3食、時間通り、朝食5時30分、昼食12時、夕食6時50分に食べる。カロリーの取りすぎに注意して、できるだけ魚をたくさん食べるようにしている。特に青背魚のイワシ、サンマ、アジ、サバを食べる努力をする。イワシが大好きだ。なぜなら魚、青背魚の中で一番キレイだからである。魚屋で新鮮なイワシを見つけると、迷うことなく買う。ウロコを落とす必要もない。ハラワタを出すこともない。160℃で17分間、焼くだけである。そこに長野県のねずみ大根(長野県坂城町ねずみ地籍特産の辛味の青首小型大根)のおろしをたっぷり添える。薄口醤油を少しおろし大根の上にたらす。
青山学院大学理工学部の福岡伸一教授は、自著『ルリボシカミキリの青』(文藝春秋刊1200円)の帯に「その青の鮮やかさに感動したとき科学が始まった」と書いている。凡人の私は、イワシの背の青さに感動しても科学は始まらなかった。遅かった。しかし、あまりの美しさと不思議さに心奪われる。子どもの頃から、多くの昆虫の美しさに見とれた。名も知らぬ美しい虫や蝶を捕らえては、何時間でもその美しさの虜になった。昔にかえったように、時間を忘れて見てしまう。
イワシは大きな魚ではない。イワシは、どちらかというと地味な魚である。焼く前のイワシと焼いた後のイワシは、まったくの別物である。もし美しさがそのままなら私は、箸をつけられなくなるに違いない。焼けば様子は一変して、他の魚と同じだ。焼いたイワシは、骨と身がキレイに離れる。私は、その見事な離れ具合に惚れている。大根オロシとよく合う。皮が焦げ、身から滴り落ちる。この脂がこげる音もニオイもいい。ポルトガルにもイワシの塩焼きがあって人気のメニューだった。海外で日本と同じ食べ方を見つけると、なぜか嬉しかった。
イワシは、ニシンやタラのように卵まで食べない。だから漁獲高は、安泰かなと油断していた。イワシもいまや高級魚である。もしかしたらシラスなど稚魚を獲っているのが原因かも知れない。日本人は、本当に何から何まで食べる。食いしん坊であり、美味しん坊でもある。遅きに失するかもしれないが、イワシの保存や保護、増殖対策を実施する時期である。
妻は背青魚を嫌う。子供の頃から安いサバやサンマばかり食べさせられたので、もう食べたくないと言う。私の家だって貧しかった。だから安い魚、サバやサンマをたくさん食べた。私はそれでも食べ飽きなかった。妻がいないお昼の孤食だからこそ、心置きなくイワシを食べられる。食べ物の嗜好は、ある意味非情である。こんな孤食も悪くない。