吉永小百合主演の映画『おとうと』を観た。映画館は平日にもかかわらずほぼ50%の入りだった。観客のほとんどが私より年配者だった。上映中にも、昔の映画館のように、大きな声で映画の内容に関する会話が飛び交い閉口した。
映画そのものに私は感動を、さほど受けなかった。印象に残ったのは、町の自転車店店主を演じた笹野高史の「どこのうちにもいるんだよ。一人や二人は。おかしいのが。うちの親戚でもこれになったのがいるもの」のセリフと手に手錠をかけられた真似だった。さすが寅さん映画をあれだけ長く撮りつづけた山田洋次監督の脚本だと感心した。山田洋次監督の感性が素直に表現されている。『おとうと』の中に『寅さんシリーズ』や『かあべえ』に共通する場面がところどころに出てきた。いくら優れた監督と云えども、これだけの多くの映画を作ると、監督の個性というか人生哲学というかの輪郭がどの映画にも共通して浮き出てくる。
山田洋次監督がこの映画に込めたメッセージは「どんな偉そうにして生きていても、人間、いろいろな先人を持っている。そんなことに現を抜かさず、自分を大切にみなと仲良く、特に家族を大切にして生きなさい」なのかもしれない。ひとりの人を遡ると10代でなんと2048人になるという。この2048人には、いろいろな人が含まれているだろう。よく自分の出自を自慢する人がいる。江戸時代の古川柳「しつっこい 系図をひいて 嫌がられ」そのままである。
だれでも元をたどれば、前人の中には、立派な人も悪い人も変人奇人もいるに違いない。そして誰も2048人をさかのぼってでも、悪い先祖やおかしな先祖のことを、自ら口にすることはまずない。いいとこどりである。血筋や家柄の自慢話というのは、私には縁がない。先祖の話しのときは、「私の祖先はどうも猿だったらしい」でお茶を濁している。そして系図系の人々と付き合わないように心掛けている。私は、祖先のことより、宇宙がいつできたのか、宇宙はどこまであるのか、宇宙はこれからどうなるのか、と言った∞無限大のことを星を見上げながら考えたい。私は、辛いことや苦しいことや嫌なことを、宇宙に置き換え、ずっとうやむやにして乗り切ってきた。これからも、そうしていくつもりだ。
『おとうと』を観ながら、私はどうやら頭の中で別の映画を観ていたようである。
映画そのものに私は感動を、さほど受けなかった。印象に残ったのは、町の自転車店店主を演じた笹野高史の「どこのうちにもいるんだよ。一人や二人は。おかしいのが。うちの親戚でもこれになったのがいるもの」のセリフと手に手錠をかけられた真似だった。さすが寅さん映画をあれだけ長く撮りつづけた山田洋次監督の脚本だと感心した。山田洋次監督の感性が素直に表現されている。『おとうと』の中に『寅さんシリーズ』や『かあべえ』に共通する場面がところどころに出てきた。いくら優れた監督と云えども、これだけの多くの映画を作ると、監督の個性というか人生哲学というかの輪郭がどの映画にも共通して浮き出てくる。
山田洋次監督がこの映画に込めたメッセージは「どんな偉そうにして生きていても、人間、いろいろな先人を持っている。そんなことに現を抜かさず、自分を大切にみなと仲良く、特に家族を大切にして生きなさい」なのかもしれない。ひとりの人を遡ると10代でなんと2048人になるという。この2048人には、いろいろな人が含まれているだろう。よく自分の出自を自慢する人がいる。江戸時代の古川柳「しつっこい 系図をひいて 嫌がられ」そのままである。
だれでも元をたどれば、前人の中には、立派な人も悪い人も変人奇人もいるに違いない。そして誰も2048人をさかのぼってでも、悪い先祖やおかしな先祖のことを、自ら口にすることはまずない。いいとこどりである。血筋や家柄の自慢話というのは、私には縁がない。先祖の話しのときは、「私の祖先はどうも猿だったらしい」でお茶を濁している。そして系図系の人々と付き合わないように心掛けている。私は、祖先のことより、宇宙がいつできたのか、宇宙はどこまであるのか、宇宙はこれからどうなるのか、と言った∞無限大のことを星を見上げながら考えたい。私は、辛いことや苦しいことや嫌なことを、宇宙に置き換え、ずっとうやむやにして乗り切ってきた。これからも、そうしていくつもりだ。
『おとうと』を観ながら、私はどうやら頭の中で別の映画を観ていたようである。