団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

手術痕

2011年06月29日 | Weblog

 歯の定期健診で小田急に乗って相模原へ行った。途中の駅から真向かいの席に上品そうな女性が乗り込んで座った。年齢は65歳から70歳、ピンク色の夏ドレス、美容院でセットしてきたばかりのような整った髪、上手にお化粧していて口紅も明るい感じだった。胸が大きく開いていて、ネックレスも良いデザインだ。手術痕? 目を疑った。じっと見るわけにはいかない。婦人越しに窓の外を見る振りをして、婦人の胸元に目を何回か走らせた。やはりよく見ると手術痕である。すると私と同じ狭心症!でも分からない。婦人に尋ねるわけにもいかない。私の痕は少しケロイド状になっている。お見受けするに大変きれいな痕である。執刀医は相当な腕を持っている。私の痕は約23センチの長さで縦に胸骨の上に残る。私は手術痕を他人に見せたくない。恥ずかしいのではない。少し胸毛がはえているからでもない。私はできることなら心臓の手術のおかげで今こうして生きていることをできるだけ多くの人々に知ってもらいたいと思っている。しかしこの婦人のように何もなかったように振舞うことができないでいる。


 同病相哀れむ、というが、確かに親近感を持つ。かといってお互いが同病を持つことなど、よほどのことがないかぎり知ることはできない。婦人の手術痕は、私にいろいろなことを思い出させた。今生の別れのように私は「辞世帳」なる遺言のつもりで大学ノート1冊に思いの丈を書き残した。大変な手術だったらしい。終って麻酔からさめると、体中管だらけだった。こお婦人も同じように管だらけになって大手術を受けたのだろう。「お互い、こうして無事手術を受けられ、今こうして普通に生きていられるのはよかった」と労いたいくらいだ。私が手術や自分の病気のことを思い出すのは、風呂に入り、裸になって鏡で手術痕を目にする時だけである。電車の中で他人の手術痕を見たのは、初めてである。私は自分が動転しているとわかった。婦人はそんな私の気持ちを知るわけがない。


 世の中には理解に苦しむことがある。今回の電車の中で手術痕を堂々と見せている人もいる。人の感性はそれぞれ違う。婦人は病気に打ち勝ち、元気に生活していることで自分を鼓舞しているのかも知れない。手術を受けたことさえ忘れてしまっているかも知れない。何も悪いことをしたわけではない。堂々としていることが自然なのだろう。私のように考えすぎるのはいけない。根が小心者なのでオドオドしすぎる。私の手術痕を見たがる人もいる。私の手術痕を見て、顔をしかめて「怖い」という人もいる。


 私はこれからも人にこちらから手術痕を積極的に見せることはない。ただ医学の進歩によって、過去に治せなかった病気を治療され、今、こうして生きていられることを感謝したい。そしてこの与えられた命を大切にしなければと思っている。この手術痕があるから生きている。私は電車の中で婦人の手術痕を見たことで、自分が今生かされていることと、過去の事実に私の顔を向けさせることができた。その意味で婦人に感謝したい。どうぞこれからも健康で!

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