団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ところ替われば

2013年10月11日 | Weblog

 浜田宏一エール大学名誉教授は安倍首相のブレインとして有名で、アベノミクスの強力なご意見番である。マスコミへの登場も多い。浜田教授と日銀の白川元総裁は東京大学で師弟関係だと自慢げに浜田教授の本『日本の復活をアメリカは知っている』(講談社 1680円)の中で書いている。浜田教授は教え子である白川さんに対して批判的である。東大では白川さんは秀才だったが、日銀総裁としては評価しないと言う。浜田教授は白川さんがまだ日銀総裁だった時に注進しようと手紙を出したが梨のつぶてだったことが原因らしい。日銀総裁を辞めた後も白川さんは沈黙を守っている。アメリカのFRBの歴代議長のように自伝なり回顧録を出版して、腹のうちを語ってもらいたいものである。浜田教授がどんなに偉い先生か知らないが、テレビに映るたびに肩いっぱいに拡がるフケが私の顔を画面からそむけさせる。身だしなみは大切だ。ましてやアメリカの大学で教える国際派であれば尚更だと私は思う。

 長野県の高校で私は劣等生だった。特に理数系では追試の連続だった。東大出のポチというあだ名の数学教師がいた。私のようなデキの悪い生徒を完全無視した。優秀な生徒には敬われていた。彼の口から発せられた言葉はトゲどころか毒さえ含んでいた。人間的に尊敬できる教師ではなかった。私の劣等感が破裂しそうなくらい膨張していた。日本の高校にいたままなら、私の人生は別の展開をみせたであろう。

  私はカナダの高校へ移ったことで状況が変わった。苦手だった数学も12年生(日本では高校3年生)の一学期に履修登録した生徒は80数名中たった3人だった。私以外の2人の生徒は1学期が終った時点で数学をあきらめ、他の科目に移った。二学期には私一人になり他の生徒は学科変更してしまっていた。数学のパウルス先生との個人レッスンになった。高校三年生で2次方程式が中心の授業だった。パウルス先生は、私に是非大学で数学の勉強を続けなさいと勧めてくれた。ポチ先生に聞かせたかった。

  私は教師の使命は、解らない生徒を教師の力量と技術で指導してひとりでも多くの生徒を理解させることにあると信じる。その点から言えば、ポチ先生よりパウエス先生の方が教師として私の評価は高い。私は日本の学校で成績が低迷していている生徒に言ってあげたい。「今のあなたの成績は、よそへ行ったら評価が違うかもしれない。だから現在が自分の絶対評価ではないと考えて、転地やり直しも選択肢になる」 学校に行きながら、日本の多くの学生が塾や予備校でも学ぶのは、ある意味この転地学習の役目を果たしているのかもしれない。

  私は“転地療養”というか“転地再出発”の信棒者である。ここでダメならあっちならどうだろうか。ところ替わればと考えて移動すれば違った世界が待っているかもしれない。移転先の選択さえうまくいけば、イジメ問題、人間関係、心療問題、健康、成績不信、教師不信に効果抜群である。私には転地は最高の結果をもたらした。ポチ先生は私を馬鹿と決めつけた。カナダのパウルス先生は私を賞賛してくれた。“ところ替われば”の実例だった。

  帰国して上田で結婚して、そして10年で離婚した。再婚して海外を転々として、現在は関東に住む。人の評価は一箇所だけでは決定されない。環境を替える事で新たな展開を望むことができる。日本では学校も職場も結婚も替えずに貫き通すことが美徳とされる。私も高く評価する。それでもダメなら違う選択肢もあることを知ってほしい。地球は丸くてでかく、そこに70億の人間が生きている。日本だけが活躍の場ではない。福沢諭吉は「本人に外出の勇気あらん者は、世界到る処に第二の故郷を作らしむ可きなり」と言った。住み慣れた場所を去ることは、寂しいことである。一方勇気をもって誰も知り合いのいない場所で一からやり直すのも心地良いと私は感じた。ここがダメならあっちはどうかと思い続けたい。

 10月8日、
東京の三鷹市で高校三年の女生徒が元交際相手の21歳の男性に殺された。ストーカーから身を守るには、転地して相手からできるだけ遠くへ離れることである。被害者の女生徒はアメリカへ留学した経験があった。「本人、もしくは家族に外出の勇気があったなら・・・殺されずにすんだかもしれない」

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