団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

井ノ上正盛さん命日

2019年11月29日 | Weblog

  「バス停で並んでいる私たちに物売りに来る子どもにも対等に話しかけていた。悪戯をする子には、全く見知らぬ子でも必要であれば叱ってあげ、分け隔てなく、どの子にも接していた。ホームステイ先の子どもたちからも「マサ マサ」と本当の兄のように慕われていた。マサと一緒にいると、気がつけば何故か子どもたちが周りに集まっていた。」シリアでマサ、井ノ上正盛さんと語学研修を受けた同僚談(『奥・井ノ上イラク子ども基金』のページから抜粋)

  2003年11月29日そのマサがイラクで凶弾に倒れた。今日は彼の命日である。

  井ノ上さんとの出会いは、私の妻がチュニジア大使館の医務官として赴任した時だった。妻の赴任する少し前に彼は、シリアから転任して来ていた。チュニジアでの在任期間はほぼ同じだった。妻がロシアのサハリン領事館へ転任した後、彼はヨルダン大使館へ転任した。私たちは彼がイラクで凶弾に倒れ亡くなったことを知ったのはその数カ月後の事だった。私は訃報を知った時、震えが止まらなかった。

  チュニジアに妻が転任して間もなく、私は交通事故に遭った。フォードKaという小さな車に雇った運転手と乗っていた。現地の道路事情は、私のようなとろい運転をする者を受け付けなかった。ラウンドアバウト式(信号のない円形状の交差点に入り、東西南北4方向に分散する方式)の交差点でいすゞの小型トラックがCaの横腹に突っ込んできた。相手が規則を無視しての事故だった。再三に渡って運転手にシートベルトをするよう言っていたが、その日も彼はシートベルトをしていなかった。いすゞのトラックが運転手側のドアに衝突したと同時に運転手は席から投げ出され私にぶつかった。運転手は背が高く体重は100キロを超えていた。Kaは小さな車である。私はドアと運転手に挟まれた。運転手の右腕の肘が私の胸部を強打した。運転手は気絶していた。交差点の周りには、野天の喫茶店があり、そこにいた男性たちがすぐに駆け付け私たちを救助した。救急車で病院に運ばれたが、医師の診察は1時間待っても受けられなかった。妻と領事が病院に来てくれた。あと数時間かかるというので、妻は私たちを私立の病院へ搬送した。妻は私の折れた胸骨が肺に刺さっているか即調べなくては命に関わると判断した。私の骨は折れていたが肺には達していなかった。この事故の件で何回も井ノ上さんには世話になった。一緒に警察の取り調べにも同行して通訳をしてもらった。警察署で井ノ上さんのアラビア語にほれぼれ聞き入ったものだ。

  井ノ上さんの奥さんが出産のために帰国していた時は、少しでも寂しい想いをしないよう我が家にできるだけ多く食事に招いた。ゴルフを始めるようにも勧めた。持ち前の運動神経の良さで、奥さんが赤ちゃんを連れて戻る直前、コンペで優勝したほどだった。話をしていて井ノ上さんのアラブ世界への想いを強く感じた。

  井ノ上さんは、小学生の時から空手を習っていた。中学1年の時少林寺流全国空手選手権大会の中学生型の部で優勝している。チュニジアでチンピラにからまれ、暴行を受け大けがをしたことがある。井ノ上さんが空手を使えば、倒せた相手であった。それでも彼は手を出さなかった。理由は自分がアラブの人を愛する外交官だからと彼は言った。

  2019年5月28日に川崎市の登戸で起こった殺傷事件で外務省の小山智史さんが殺された。この方との面識はない。しかし彼はミャンマー語の専門家だった。外務省といえども英語などの主要言語以外の言語に精通する人は少ない。井ノ上さんも小山さんも国の外交を担う上で貴重な存在であった。その才能熱意がいとも簡単に消し去られてしまった。これがどれほどの損失か彼らを殺した者共にわかるはずもない。それが悔しい。そして日本の何の役にも立たない72歳の私がのうのうと生きながらえているのが申し訳ない。彼が生きていたら…。

 毎年、11月29日に私は線香をあげ、手を合わせる。

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