「胃壁が以前のピロリ菌駆除以来、使った薬の影響で薄くなっていますが、他は十二指腸も胃も食道も異常ありません」 先に終わった検査の録画された胃カメラでとらえた私の胃の内部の映像を確認したB医師が、か細い聞き取りにくい声で言った。私は安堵で全身から力が抜けおちるように大きく息を吐いた。
今年5月にも胃カメラ検査を受けていた。それは定期的な1年に1度の検査だった。しかし11月初め嘔吐した。私は余程のことがないと嘔吐しない。それがまず前兆だった。胃のあたりが不快ですっきりしない。食欲がない。そんな時必ず私の父のことを思う。父はすい臓がんだった。発見が手をくれで手術さえできず、あちこちに転移した。72歳だった。私は今年その父の年齢になった。
私の糖尿病主治医に相談した。再び胃カメラ検査を受けることにした。1月には心臓のカテーテル手術で新たな心臓の冠動脈にステントを入れた。胃カメラも抵抗はあるが、心臓カテーテルに比較したら、ずっと楽である。
とは言っても初期の胃カメラ検査は、苦痛以外の何物でもなかった。あのこぶし大に見えたカメラ、それに繋がる黒光りする太い管。見ただけで吐き気をもよおした。実際、検査が始まり、胃カメラの先端が喉から食道を通過する時、嗚咽、涙、鼻水、よだれが駄々洩れ。声は出ない。何故なら声帯は、胃カメラ軍に制圧され、その機能は無力化されていた。私は口の中が特に敏感というか、何か押し込まれると吐き気が襲う。癌は恐ろしいが、こんな苦しい検査を受けるくらいなら、見つけてもらわなくても結構とさえ思った。
今はカメラも管も目を見張る進歩を遂げた。それだけではない。以前は頼んでも中々、全身麻酔しての検査は受け入れられなかったが、今では患者が望めば、鎮静剤を使ってくれる。これが私にはよく効く。普段からボアーンとしているところがあるので、薬で更にボアーン度が上昇する。テレビを観ながら、ソファに持たれていると、瞼が下がり始める。その下がろうとする瞼とテレビを観なければという制御して瞼を押し上げようとする。指揮官を失い双方が迷走状態になる。拮抗状態。意識もうろう。これが気持ちがいい。痛みも不快さもない。目の前のモニターに胃の中に入ったカメラからの映像が写っている。カメラの先端にはライトがある。ライトが私の胃を照らす。
思えば胃って凄い。私は辛い物が好き。タバスコ、善光寺の七味唐辛子、胡椒。甘いものが胃に悪いとは、思わない。しかし辛いものは、悪そう。酒だって飲む。日本酒、焼酎、ビール、ジントニックそれにワインも飲む。アチッチと手で茶碗を持てない熱いお茶、キーンと頭を突き抜ける冷たいかき氷、苦いコーヒー、ショッパイ鮭、ありとあらゆる食べ物飲み物を受け入れる。そればかりではない。私はたくさんの薬を服用している。朝4錠、夜3錠。その他にも4種類のサプリメント。薬も過ぎれば毒になる、という。毎日胃は黙って全て私の口から入った物を受け入れてくれる。72年間。それなのに私の胃は、きれいなピンク色をしていた。
自分の体の内部まで一患者の私でさえ覗き見ることができるエライ時代に生きる有難さ。終わりの日が来るまでお世話になる体をもう少し労わって大切にしたいと思う。