狙った瞬間を写真に撮ることは、難しい。考えて見れば、カメラは、忠実に1瞬間を撮っている。しかし全ての写真が、私の望む瞬間なのではない。例えば、家の前の川の堰を飛び越えようと鮎が水中から跳びはねる。そんな瞬間を見る時、カメラを持っていないものだ。アオサギが堰の上に陣取って、じっと鮎が跳ぶのを待っている。反対側の土手で私は、カメラを構えて、今か今かとアオサギが鮎を捕らえる瞬間を待つ。カメラを望遠レンズにするとちょっとの揺れで、焦点を合わせてあったレンズの被写体が、レンズの中から消える。私のような高齢者は、常時、体が揺れているらしい。狙った瞬間の一コマを撮れるのは、稀である。
アメリカ大リーグでの大谷翔平選手の活躍が目覚ましい。すでに今シーズンホームランを24本打った。私のような、にわか野球ファンは、ただただ大谷選手が、ホームランを打った瞬間を見たがる。大谷選手の打率は、3割近辺である。つまりヒットを打つのは、10回打席に立って、3回である。後の7回は、三振か四球か凡打なのだ。三振なぞしたものなら、「チッ」と舌打ち。失礼な話である。大谷選手が今の活躍できる状態に到達するまで、また現状を維持するために、どれほどの努力と犠牲を払っているかを理解できていない。打席が2回3回と回っても打てないと、ついついテレビの前を離れてしまう。そんな時に限って、戻るとホームランを打った後だ。こうしてせっかくの瞬間を逃す。大谷選手のホームランを打った瞬間を見るには、我慢が必要。
私は、今の場所に住んでからずっと狙っている瞬間がある。近くを通る新幹線の写真だ。上下線の新幹線の列車が、鉄橋の上ですれ違う。その上下線の新幹線列車の鼻先がくっつく直前の瞬間。だいたい鉄橋の上で新幹線の列車がすれ違うこと自体ごく稀である。時間表をみて狙ってきたが、中々その瞬間は、やってこない。まあ私の暇つぶしの一環としていつかその瞬間に遭遇でき、カメラに収めることができたらと思っている。
先週の日曜日は、父の日だった。私は、正直この日が好きではない。なぜなら私は、決してこの日を祝ってもらうような父親ではないと、自覚しているからである。二人の子どもには、人生の大切な時期に、要らぬ苦労心痛を与えた。そんな私に二人の子どもから贈り物が届いた。父として恥じる自分でも、贈り物の包みを前にすると、目尻が下がる。まだまだ物欲にひれ伏す自分。贈り物の包みを開ける瞬間は、何歳になっても嬉しいものだ。リボンをほどき、包装紙を止めてあるセロテープを細心の注意で剥がす。段ボールの箱。蓋をとる。まだ中に何が入っているか分からない。これを準備する時間、手間、思いを察する。カードが入っていた。読む。字がかすんだ。
命は、瞬間という時間が集まってできている。喜怒哀楽入り混じっている。誰も良いとこどりだけの命を持てない。一難去ってまた一難の時もある。幸運が続くこともある。
カメラを持って散歩しながら、決定的瞬間を狙う楽しみ。大谷選手のホームランを打つ瞬間を待ちわびる。好取組の大相撲の立ち合いのしびれる瞬間。妻に「ありがとう」と言える瞬間の幸せ。まだまだ願う瞬間を求めてみたい。