いつもの魚屋でヒラメの昆布締め用の生きたヒラメを買った。明後日客を夕食に招いている。魚屋を後にして次の買う物のメモを見ながら歩いていた。最近メモなしでは買い物ができない。メモも老眼鏡なしでは読めない。老眼鏡を肩掛けカバンから出そうとしたその時、背後から「おとうさん、おとうさん」の声がした。私はそれが自分への呼びかけであるとは思わなかった。それは今までに「おとうさん」と呼ばれたことがなかったせいだろう。娘は「パパ」、息子は「オヤジ」と私を呼ぶ。妻は絶対に私を「おとうさん」とは呼ばない。どんどんその声は近づき、とうとう私を追い抜いて私の前に向きを変えて立った。ゴムの黒い前掛け姿のさっきヒラメを買った魚屋の若い店員だった。包みを渡しながら「これ」と息を弾ませて言う。ゴム長靴にゴムの前掛けで走るのは若者でも大変だ。私はまた失敗したと瞬間思った。息を整える若者を見て申し訳なく反省した。買い物して買った品物を置いてくる。買い物の代金を支払い、おつりを受け取るのを忘れる。こんなことが頻繁にある。でも私の手にはヒラメの包みがある。「お渡しするの忘れてしまいました。すみませんでした」若者はねじり鉢巻きを外して頭を下げた。私はヒラメの他にも魚を買った。しかしヒラメに気がいっていて他の魚のことは忘れていた。それは店員にも同じだったようだ。ヒラメだけ私に渡して店員は他の包みを渡さなかった。若者でも忘れることがあるのだ。
私が忘れたのではなかった。そのことが私を大いに喜ばせた。ほっとした。魚の包みを受けとりながら「ありがとう」とおとうさんは頭を下げた。若者は来た方向に向きを変え、また小走りで店の方へ戻って行った。台風5号が通り過ぎた。空は青かった。私の心も晴れ渡った。気持ちが良かった。
「おとうさん」と呼ばれたのは初めてだったけれど、こんな気持になれるのなら、そう呼ばれても悪くない。魚屋の若者はきっと私を呼び止める時、悩んだに違いない。彼はまだ他の店員のように私の名前を知らない。どこの国の言語であって名前を知らない人に呼び掛けるのは一苦労ある。その時魚屋の若者は私の後ろ姿、また午後早いこの時間に男が魚を買いに来ることを考慮して「おとうさん」の言葉を選んだのだろう。年齢的にも雰囲気的にも「おとうさん」はひとつの選択である。
家に帰ってヒラメを3枚におろしている最中にも、「おとうさん、おとうさん」と呼ばれる声が思い出された。顔の筋肉はゆるんでいた。ヒラメの皮を剥いで薄く切り塩を振り木枠の下板に昆布を敷きヒラメを並べた。その上に生姜の千切りを拡げ、その上に香菜の葉を拡げ再びヒラメを置く。最後に昆布を乗せ上板で押さえる。上に重石を置いて冷蔵庫で寝かせる。
こうして“おとうさん”の昆布締めは客に供された。私はいつもより旨いと思った。自画自賛である。機嫌よく料理すれば味も良くなるのだろう。御機嫌よう。